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表現者の流儀 #170 ルイージ・クレアトーレ

ルイージ・クレアトーレ(19211221日‐20151213日)

音楽プロデューサー

 

ヒューゴ・ペレッティとのコンビであるプロデューサー・チーム「ヒューゴ&ルイージ」として数々のヒット作を手がける。

 

代表作に、スタイリスティックスの『愛がすべて』(1975年)、トーケンズの『ライオンは寝ている』(1961年)、エルヴィス・プレスリーの『好きにならずにいられない』(1961年)など多数。

 

 

僕たちはポップスのプロデューサーだったんだ。

「聴き手は?」、「ターゲット層は?」、「レコードを買う層は?」と、つねに考えていた。

プロデューサーになった頃、近所の奴に「なんで、もっといい曲を作らないんだ?」と言われたことがある。

「ワルツを作ってほしいのかい?」と訊くと、「そうだ」と答えるから、「最後にレコードを買ったのはいつだ?」と問い詰めると、「憶えていない」と。

だから、「そんな奴には曲は作らない、レコードを買ってくれる人に曲を作っているんだ。それがポップスなんだ」と言ってやったさ。

 

 

ライター志望の若い人には、「あきらめずに続けなさい」、「言葉のセンスや技量を磨き続けながらも、大きなチャンスが来るまでは他の仕事も続けなさい」とアドバイスしたいね。

チャンスを上手くつかめたら、書くことだけに専念すればいい。

 

BS-TBSSong to Soulより

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at 01:02, maricro15, -

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表現者の流儀 #169 岸田繁

岸田繁(きしだしげる 1976427日‐)

ミュージシャン、シンガーソングライター

ロックバンド「くるり」のヴォーカル、ギター、フロントマン。

 

 

1997年、大学3年生の時、デモテープが音楽事務所の目にとまり、東京でのレコーディングに誘われ上京。

翌年にメジャーデビューシングルとなった『東京』を作詞・作曲した頃の回想。

 

 

友達とかも東京にいーひんかったんで、レコーディング始まるまで身寄りのない状態で。

今やったらね、なんか…ホテルとってとかやるんですけど、大学の時ってなんも考えてへんから、最初は荻窪のサウナとかでなんとか泊まれたんですけど、そこから無理で、「どないしよ」思て、公園とかにおって…井の頭公園とか。

メンバーが風邪をひいたりとか、けっこう大変やって。

 

歌詞作んので悩んでたりしてた時期で、「もう歌詞なくてええんちゃうか」みたいな方向に行きかけてた時なんですよ。

「ギャアァァァァー」とか、そんなんでええんちゃうか、みたいな時やって。

あるいは誰もわからん、なんか暗号みたいなこと言うとったらええやろ、みたいな時やったんですけど、「あぁ、思うてることを書いたらええねやな」って初めて思って。

 

そん時に、つきあってた子とかと…なんか忙しなって、あんま会えんようになって…携帯代払えてへんかって止められてたんですよね…公衆電話とかで…電話代をケチったらジュース買える…どっちか? みたいな感じやったんですよね。

で、「ちょっと電話して声聞きたいな」と思った時に、その子やなくて、その前つきあってた子に電話したなったりしたんですよ、その時に。

結局、電話せんと、缶コーヒー買うて飲んだんですけど、そのまま書いたんが、この『東京』ていう曲やったんですね。

 

 

(曲を)作る時って、なんかパズルに近いっていうか…わからんけど、クジラがいて、海があって、島があって、ヤシの木生えてたりしたら、たまたま持ったパズルのピースが「ヤシの木みたいなやな」みたいなとこから始まるっていうか。

でも別の取ったら、「なんか真っ青やし」みたいなんを一生懸命つなげていくみたいな。

たまにその、一生懸命組み立ててたら、全然違う模様になったりとかした時は、「あぁ…」と思って。

 

 

(童謡『おぼろ月夜』が)すごい好きな曲で、好きな理由っていうのも、もう「無」に近いぐらい(笑)

もし、パッと自分が曲作って、こんな曲が作れたら、「もう、それでええわ」思て、やめるかもしれんくらい…。

何の感情も起こらへんけど、ひとつの景色見えてる、みたいなんがいいなと。

「これが当然の、世の常なんです」みたいな(笑)

 

NHK『ミュージック・ポートレート』より)

 

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at 23:56, maricro15, -

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表現者の流儀 #168 桝野俊明

桝野俊明(ますのしゅんみょう 1953228日‐)

禅僧、作庭家

 

 

庭の中も微妙にですね、高低差があったり、それから、じつはここ(木が生い茂っている場所)、空間が閉じてるんですね、先ほど(門から庭に入ってすぐに)パーっと視界に水(池)が入ってきたのが、(木が多いところでは)木の合間からチラチラとしか見えなくなってくる。

閉じてくると、人間って少し気持ちが内に向くんですよね。

それがまた、しばらく(歩いて)行くと、それ(視界)がパーっと開ける。

ですから、こういう庭(日本庭園)ってのは、開閉開閉と…それが、人間が上手くそこで心がコントロールされるんですね。

 

 

私たち、(庭を)デザインする時、絶対に同じものを見ていただいても、同じ景色に見せないっていう…必ず景色が変わって見えるというのを、つねに意識するんですよ。

 

池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)といいいましてね、、池をぐるっと巡るわけなんですが、当然、歩きながらでも、どこが一番盛り上がったとこで、どこが少し落ち着いたとこでと、頭の中で描くわけですよ。

それを私たちは空間で閉めたり、開いたり、その「閉」の空間から「開」の空間に移る変化点が、いわゆる美しいポイントなんですね。

また逆もそうなんでです、開の空間から閉の空間に入る瞬間が美しいポイントなんですね。

変化点っていうのはやっぱり、人間っておもしろいもんで、グーッと閉じたところを歩いてますと自分の内なる心というか、心が内向きになるわけですよ。

それが、パッと開けて空が(視界に)入ってくると心が開けるんですね。

 

 

京都の夢窓疎石(むそうそせき)、あれだけの立派な、大変なことをなさった和尚ですけれども、もう庭が好きで好きでどうしようもなかったんですね、「私はそれが癖だ」と自分で言ってるくらいですから。

自分が会得した心の状態というものを庭という空間に置き換えている。

自分の心の中で感じたものを何かに置き換えて表現しようということを、昔したんですね。

その時に、今でいう三次元が好きだった人は庭にいって、庭を得意とした人は石立僧(いしだてそう)っていうんですよ。

ニ次元の人は墨絵にいった、そして文学の人は漢詩にいったという。

だから、心がそのまま映し出されちゃうんですよ。

 

 

春になれば、自然と木々が目を出して花を咲かせたりしますよね。

これっていうのは、もう人間の謀(はかりごと)を超えてることですから、それが真理なんですね、それを感ずる。

ですからよく昔の人は、「庭ってなんですか?」、「仏じゃ!」って、よくわかんない禅問答みたいになっちゃうわけですけど、ようは「そこに真理が現れてるでしょ」っていうことを言ってるわけですよ。

 

 

建築なんかですと、決まった寸法で、決まった素材で、決まったような形ができていくわけですけど、庭っていうのは全部が自然ですから、自然の素材ですからね、こうしようという構想はあっても…自然の材料、まぁ木だとか石だとか、それから周りの環境ですね、それに聞いてくるんですよ、聞くんですよ。

たとえば、あの石に「どこに座りたい?」って聞くと、「私は、あの左側のほうがいい」と語りかけてくれるわけですよね。

そうすると、それをそういうふうに据えていってあげる。

ですから、こういう敷地で何かを作るとなった時、まず私は何もない、されてない敷地に行って、ずーっと眺めているんですよ。

そうすると、そこが何を語りかけてくるかなっていうのをメモしたりスケッチしたり。

当然そこには負の要素もあれば、プラスの要素もあると。

長所はいかに生かしていけるか、短所はどうやって消していったらいいのか、あるいは気にならない存在に変えていけるか、ということをそこで考えていきますね。

聞くことなんです、ここがデザインが始まるスタートなんです。

 

 

その頃(修業時代)はまだ、どうやったら美しいものができるかとか、そういうところに、やっぱり足し算のほうなんですね、初めの頃は。

ところが、大学を出てから数年間、恩師のところについて、それから雲水修業に入ったんですけど、そうするとすべては今までは当たり前だったものを取り除かれちゃうんですね。

たとえば、十分に寝られない、食べられない、足伸ばせない、もう極度の緊張で冬でも汗びっしょりかくくらいの生活をする…そうすると、もう何でも今まで当たり前と思っていたことが、こんなにありがたいことだっていうのを、頭じゃなくて体が感じるようになるんですよ。

それからやっぱり、がらっと変わりましたね。

もう一体です、私のデザインと禅の考え方とは一体です。

 

 

枯山水が一番難しいです、一番大変です。

ですから、私も枯山水ね…どうでしょう、50(歳)半ばまで封印してましたね。

まだ…いわゆる足し算をしたいという気持ちが残っているうちはできないんですよ。

引いて引いて引いて、もうそれが自分の中で、「あぁ!」って引き算ができるようになったって思うまでは、枯山水はやってもいいものにならないです。

 

本当にやりたいことが輝かないんですよね、引いていかないと。

それができるようになると、物凄いおもしろいですね。

たとえば、石を三石とニ石、3つの石組と2つの石組で、この間にどうやって余白を取ろうかと、形をもってしても表しきれない部分をそこにやろうと。

それって、ちょっと石が付きすぎると、もうそれでなんとなく暑苦しい、離れ過ぎると間が抜けちゃう。

本当に緊張感があってギリギリのところってのは、もう本当に一点なんですよね。

そこができるようになると、物凄いおもしろいです。

 

 

ヨーロッパの庭は、つねに主従関係があるんですよ、建物が主で庭が従とかね。

それから、特にフランスとかイタリアの庭園っていうのは…建物がシャトー、お城ですから、プライベート空間が上なんですよ、そうすると上から俯瞰する時に美しいんですよ。

それでシンメトリーでパターンになっているわけですね、それが色であったり形であったり。

日本は主従関係を設けませんから、庭の中に私たちがいる、まぁ「共生(ともいき)」っていうんですね。

今、現代では共生を「きょうせい」というふうに読むんですけれども、共に生きるですね、これもともと仏教語なんですね。

ですから、庭の中で置き換えますと、みんな、木も石もそれぞれみんな心を持っていると。

それを私たちは、「石心(いしごころ)」、「木心(きごころ)」っていって、それをどういうふうに聞いて、どう生かしてあげられるか。

(日本庭園は)ケンカしてないですよね、みんな、それぞれがみんなそこで輝いているじゃないですか、なんか負けちゃって枯れそうな木はないですよね。

そういうように、みんなが輝けるように、どうやったら、それぞれの石や木が輝けるかと、そういうふうに組み合わせてあげられるかっていうことが私たちに課せられてて、それは非常に、つねに大事に扱ってます。

 

 

これ(作庭家としての目標や夢)は私とともに変化していくと思うんですね。

終わりがないですから、つねにつねに…私の生き方に終わりがないのと同じように、極めていこうとする姿勢が庭の在り方に変わっていくだけです。

ですからね、禅は完全を嫌うんですよ、完全ってのは終わりがあると。

だから、つねに不完全、均整を超えて不均衡にいくんですね。

 

完全だと疲れます。

やっぱり、不完全であるからこそ自然らしさを感じられるんです。

完全の美を求めていくと、それはヨーロッパの整形の美しさになっちゃいます。

ですから私は、ヨーロッパの美は完全なる美、日本の美は完全を超えた不完全な美っていってるんです。

不完全というのは完全に至る前も通常いいますよね。

そうじゃなくて、完全になってしまうとそこに作り手の人間性だとか精神性ってのは入り込む余地がなくなっちゃう。

だから、それを1回、あえて壊して、そこに作り手の人間性あるいは生き方っていうのがどうにじみ出る、現れるようにするかという、これが完全を超えた不完全。

だから、そこに我々の力だけではなくて、何かこう自然の力あるいは変化、そういうものが加わってひとつの総合芸術になるんですね。

 

 

私はね、庭は人なり、だと思います。

穏やかな庭がありましたと、それを眺めてると、そこで過ごす人あるいは育った人はみんな穏やかな人になりますよ。

庭が攻撃的なようなね空間だったとする…落ち着かない人間になっちゃいますよ、毎日眺めてるんですから。

ですから、怖いですよ。

やたらにポンっと作って、それを眺めてる人がどういうふうに育っていっちゃうか、どういう気持ちで毎日過ごされるかということを考えると、やっぱり物凄い慎重にならざるを得ないですね。

(庭は)なんかあそこに行ったら、長くいるつもりじゃなかったんだけど気持ちよくて、ずっと眺めちゃった…それでいいと思うんです。

そして、また行った時に、前回には気づかなかったことに気づけるというところがあるんですよね。

それはなぜかというと、変化の中でとどまらないから、何回訪れていただいてもいいんですよ。

 

 

禅っていうのは固定観念を持たないで外しましょうっていう。

固定観念を持たないからこそ自由闊達にいろんなものがくっつけられたり、いろんな発想ができるんですけれども、人間って固定観念を持ってしまうと、こうでなければいけない、こうあらねばいけないとなると自分が縛られちゃうんですよね。

そうすると、その縛られた範囲内だけでしか動けなくなっちゃう。

その周りに、たくさんいいものがあっても見えなくなってしまう。

その縛りをつねに外す訓練をしましょうっていうのが…じつは、ええ。

 

 

昔から常々、考えていたことなんですけど、自分でいいものを作ろう、いいものを作ろうと思うと、常に作ったものを超えていかなきゃいけないっていう縛りみたいな、プレッシャーみたいなものがありますよね。

ところが、私が禅僧としてやっているのは、自分自身を表現すればいいんだと。

ですから、その時の自分がこう、作品になっていけばいいから、作らなきゃいけないっていうプレッシャーはないんですよ。

今日の自分が、ここに投影されている、明日はこうかもしれない、1年後はどうなるかわかってない、でも確実にそこから少しずつ進んでいくことは確かだと思うんですね。

超えよう、超えようと思った時に、それがもう苦しみになってくる。

それを1回やめてしまって、今の自分を投影するんだっていう…だから今の自身が現れるだけですよと…という気持になられたらもう、グッとラクになります。

それはね、ある意味それが推進力になるから大事なんですけれども、超えなければならぬ、と思ってくると、今度はこれが悩みになり苦しみになってきますから。

自分のためにやっていると思っているだけで、じつはそれは、いろんな人に貢献もできてるし、いろんな人の役にも立ってるわけですよね。

なんか、人のためになって、それが結果として自分に…推進力になって、自分のためになっていくという…たぶん、そういう考え方をされると、もっともっと生き方がラクになると思います。

 

 

人間が作ろうとする、まぁ計らい事みたいなものがありますよね。

それを超えたところに自然の偶然性みたいなのが加わって、初めて作品になる。

 

NHKSWITCHインタビュー 達人達』より)

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表現者の流儀 #167 種田山頭火

種田山頭火(たねださんとうか 1882123日‐19401011日)

俳人

 

放浪の俳人とも呼ばれ、定型にとらわれない自由律俳句で新境地を開いた。

 

 

山頭火、ある日の日記から。

 

 

歩かない日はさみしい

飲まない日はさみしい

作らない日はさみしい

ひとりでゐることはさみしいけれど

ひとりで歩き

ひとりで飲み

ひとりで作ってゐることはさみしくない

 

BS-TBSTHE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜』より)

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表現者の流儀 #166 ボブ・ディラン

ボブ・ディラン(1941524日‐)

ミュージシャン、シンガーソングライター

 

 

偉大なパフォーマーたち…僕が憧れた人たちには共通点があった。

「君の知らないことを僕は知っている」という目だ。

僕もそういう目を持つパフォーマーになりたかった。

 

 

悪魔と大きな取引をして、一夜にして変わったんだ。

ミネアポリスに戻ったら、みなが不思議がるので、“魂の取引に行った”ということにした。

 

 

僕の歌には変なクセがあるけど、それは個性だから捨てる気はなかった、簡単にはね。

 

 

いつも楽しくなきゃいけないのかい? 何のために?

 

 

いつも歌を作った。

地下鉄の中、カフェ、どこでもいい。

話しながらでも歌を作り、紙に書くことができた。

 

 

あの歌(『風に吹かれて』)がいいか悪いかわからないけど、時代に合っていたと思う。

歌い継がれるかは、わからない。

あの歌は、歌われるために作られた。

あの言葉で歌う必要があった。

ああいう表現はなかった。

 

 

フォークには古い歌を作り変える手法がある。

僕は、それにのっとって曲作りをしただけだ。

僕が初めてじゃないし、画期的なわけでもない。

 

 

いつかバカどもが僕の歌について書く。

何を歌っているのか僕にもよくわからないのに。

 

 

曲をたくさん作った。

あの時(1960年代初頭)は作れた、それが僕にとって新しいことだったから。

誰も見つけていないものを見つけた。

誰も踏み入っていない芸術的領域にいると感じた。

勘違いだったかも?

 

 

時代の精神を伝えたくて、持てる知識を総動員し、それを歌に昇華させようとしたんだ。

上手くいったと思う。

妥協はしない、可能な限り、深く探求しようと思っていた。

 

 

目的に到達したと思ってはいけない。

いつも、どこかに向かう過程にあると思うべきだ。

そう思っているかぎり大丈夫だ。

 

 

歌を聴き手に合わせるつもりはない。

誰もが満足する歌などない。

ドアの内側に身を隠し、それからは誰にも邪魔されずにいる。

 

 

最高の演奏はステージ上で生まれる。

僕のレコードの中にはない。

その瞬間…瞬間、観客に届くことが大事だ。

 

 

言葉は違う意味を持ち、また意味を変える。

10年後には別の意味になる。

 

 

(1960年代中盤は)ひとりでやるつもりはなかった。

バンドがいるほうが歌の力を引き出せると考えた。

エレクトリックで演奏したが、だからといって必ずしも現代的とはいえないよ。

たとえば、ほら、カントリーだってエレキを使っている。

 

 

フォークロック?

僕には関係ないね。

聴くとヒットチャートが浮かぶ。

考えたくもないね。

 

 

気づいたら、長い物語を吐き出すように書き上げた。

そこから『ライク・ア・ローリング・ストーン』を作った。

何かに突き動かされて、書かなくてはならないと思った。

小説は、もういい、興味がなくなった。

書きたいのは歌だった。

 

 

(『ライク・ア・ローリングストーン』は)まったく新しいものだった。

あんな歌、聴いたことがない。

あの時まで僕がしていたこと、さまざまなことが自然にあの歌を書かせたんだ。

 

 

僕は、みんなと同じでいたいとも、無理して好かれたいとも思わないんだ。

パフォーマーは称賛されたいかって?

パフォーマーによるね。

『奇妙な果実』を歌った時、ビリー・ホリデイに称賛はなかった。

ステージでは人の心を完全にとらえられる。

僕にはわからないが、なんというか…観客の前ではいろいろなことが起きる。

 

 

ブーイングは平気だよ、捨てたもんじゃない。

やさしさが、かえって人を殺す場合がある。

 

 

手に負えない。

「なぜ、超現実的な歌を書くのか?」

そういう質問こそ現実的でない。

僕は、そんな質問に答えられない。

ほかのパフォーマーだって答えられない。

マスコミも質問をやめない。

歌を作って歌う人間が社会の問題に対する答えを持っている。

マスコミは、そう思い込んでいた。

そんな連中に何を言えばいいんだ。

ばかばかしい。

 

 

ある時から、僕に対して歪んだ見方をする人が出てきた。

それは音楽界以外の人たち。

世代のスポークスマンとか、何かしらの良心とか。

ピンとこなかった。

理解できない。

歌のためなら、どんなレッテルでもかまわない。

いつも人々に向かって歌ってきたから。

 

 

家に帰りたい。

家って何だろう。

イタリアにも、どこにも行きたくない。

自家用飛行機が落ちるのが…テネシーがいいか、シシリーか。

ただ家に帰りたい。

 

(映画『ノー・ディレクション・ホーム ボブ・ディラン』より)

 

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表現者の流儀 #165 池上遼一

池上遼一(いけがみりょういち 1944529日‐)

漫画家

 

1962年のデビューから55年、4万枚以上の原稿を描いてきたベテラン漫画家。

代表作に、『男組』、『クライング フリーマン』、『サンクチュアリ』、『HEAT-灼熱-』など。

 

 

感性を磨くってことなんですよね。

普通の日常の生活の中でもね、感性のある人にとっては、ある意味、特殊な体験なんですよね。

人よりも特別な体験をしなきゃ、ものは描けないとか、そう言ってる間は何も描けないですよ。

 

 

表情にこだわるんですよね、僕の場合。

下描きの段階で気に入らないことには、ペン(入れ)には入らない。

 

 

リアルな絵で荒唐無稽な話をやりたいんですよね。

「こんなことがあるわけねえだろう」、「こんな主人公いるわけないじゃん」ってなるんだけど、絵をリアルに、演出をリアルにすることによって、「ひょっとしたら」って思わせるっていうか、それがまぁ僕の仕事だなぁと思ってるんで。

 

 

やっぱり、表情では目ですよね、目が一番その…感情を出せるっていうか。

あとは、口ですかね。

唇の下の影なんだけど、男の唇でも下の影のつけ方次第で深みのある唇が描けるなっていうか。

リアルにもってこうとすると、そういうところまで描いていかないと…。

あと、眉毛ね。

眉毛もね、微妙に感情を表現できるんですよね。

あと、指の描き方とかね。

男性は、主人公の爪は深爪にしてるんですよ。

いい男でも不潔感は出したくないんですよね。

指のクローズアップになった時は、その男の爪もやっぱり格好よくないとダメだろうなぁと思ってるんですね。

 

 

こだわりは、美男美女なんですよ。

いい男前が出てこないと、描いててもおもしろくないんですよね、僕は。

(美男美女への思い入れが)僕の場合、強すぎるんですよ。

僕自身は普通だと思ってるんだけど、女房なんかに言わせると「異常者」だって言われる(笑)

 

 

目、鼻、口、耳…神の創造物としての一番理想的なものを描こうとしてるんですよね。

もう、理想ばっかり描いてるからね。

「日本人として生まれて、よかったな」と思ってもらいたいんですよ、読者に。

日本人に、こんなにいい男なり、いい女がいて自信を持てるというか、僕の漫画を読んで、もっと前向きに生きれるなっていうか。

 

 

この世界は矛盾を孕んでるじゃないですか、すべて両面があるわけでしょ。

だから、こういう善とかなんとか、正義とかそういうものに抵抗するキャラクターに僕はシンパシーを感じる…だから、こういうアウトローの世界になっちゃうんですね。

偽善とか、欺瞞とかいうのは嫌いだっていうね、そういうのが今も変わってないんですよね。

 

 

アクションで相手をぶちかましても、どこか、ふっともの悲しげな顔になったりとか、それはシナリオには書いてないわけですよ。

原作に書かれてない部分を探し出すのが僕の仕事だと思ってるから、そこらへんをね、出したいなと思うんですよ。

 

 

(『BEGIN』では)今まで描いたことのないような、ちょっと野生美のあるようなキャラにして、ところが目はちょっと憂いがあって、何か過去に悲しいことがあったのかなとか。愛していた愛娘を何かの形でね、死なせた過去をもってるとか、だから今、女の子にはやさしいとか。

「そうなんだろうな」と思って、勝手に想像して、この目を作ってるんですよね。

それがエピソードとして(原作に)出てこなくても、なんかの時に読者に感じてもらえる表情を…。

 

 

タバコの吸い方にね、すごいエロティックなものを感じる。

感情表現は、なにも顔だけじゃなくて、その男が持ってるライターとか、たとえば指の形とか、すべてが感情表現の道具になるんですよ。

 

 

絵にね、色香っていうか色気がなくなったら、もうダメだなと思ってるんで。

僕は男の肉体が好きなんですよ。

特に三角筋が好きですね、それと男の前鋸筋(ぜんきょきん)といってね、のこぎり状の、あばらにつく筋肉とか、全部が色気につながるんですよ。

やっぱり、神が創った生き物ですからね、鍛え上げればもう本当にすばらしい形になるんですよね、肉体ってのは。

 

 

どこか屈折感とか、あと何か心の奥で茶化してるとかね、そういうような虚無感みたいなものを目に出したいなっていうのが、なんかありますね。

 

 

ひとつ間違えば、時代の迷子になってしまうような、古い人間かもしれないけれども、なんか自分に忠実に生きたっていうか、そういう男の生き方がけっこう僕は好きですね。

少し悲しみがね…無意識に出ちゃうのかもね、僕の中で。

 

 

最近の若い作家さんっていうのは、わりと等身大の主人公が多いじゃないですか。

僕なんかがもう、「古いな」と思われるような気がするけれども、まぁ僕はもう願望しか描けないから、これを続けていくしかないんですよね。

 

NHK『漫勉』より)

 

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