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*マリクロ|電子書籍総合出版社 作家ブログ*
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新海誠(しんかいまこと 1973年2月9日‐)
アニメーション作家、映画監督
代表作に、『ほしのこえ』、『秒速5センチメートル』、『言の葉の庭』、『君の名は。』など。
効果音とか音楽とか、あと、とりあえず声も、この段階(絵コンテ制作)でしゃべって入れちゃうんですね、僕と奥さんでね。
今回の映画(『君の名は。』)は107分の映画なんですけど、大体107分間、ここまでは1人で作るんですよ。
カット数でいうと1700カットぐらい、ラフな絵だけど1人で描くんです、大体、半年ぐらいかけるんですけど。
合成作業が僕は一番楽しいかな…みんなが細かく描いてくれた背景を、「ぼかすぜっ!」ってぼかすと気持ちいいじゃないですか、申し訳ないけれども(笑)
絵空事に、なるべくならないように。
今、同時代に生きていて、同時代の人に見てほしいと思いましたし、見た時に、「もしかして自分たちの何かとつながってる」って思ってほしいなって思ったので。
たとえば、想定している観客としてつねにあるのは、ひとつは過去の自分ですね…10代の頃の自分であったりっていうのはあるし。
今回の『君の名は。』に関して言うと、明日会うかもしれない人についての話でもあるんですよ。
夢の中で出会う男女の話なんですけど、それって、まぁアニメだから夢の中で出会って(男女が)入れ替わったりするんですけど、でも現実の中でも僕たちは明日、誰か知らない人に会うかもしれないですよね、あるいは何年後かにもっと大事な人に会うかもしれないじゃないですか。
なんかね、そういう人が未来にいるっていうことを強く信じてもいいのかなぁと…特に過去の自分であったりとか、今、思春期あたりをうろうろしているような子たちっていうのは、今がピークって考え方もあるだろうけど、その先、大人になってから、まぁ大人になる手前でもいいんだけど、まだ会ってない人の中に、すごい大事な人がいるかもしれないっていうのを言いたいし、僕はいたから。
(デビュー前)とにかく、作りたいっていう衝動だけだったんですよね。
でも、同時にいろんなことが上手くいってない時期だったんですよ、いろんな人間関係とか…たとえば、つき合った人のこともそうだし、友人関係とかもそうだし、会社との関係とかもあったりして、「とにかく、何かもう言いたいことがあるんだ」と。
何があったんだろう…でも、とても恥ずかしんですけれども、映画『星の声』って最後、「僕はここにいるよ」という言葉で終わるんですよね。
もしかしたら、単純にそういう気持ちだったのかもしれない。
ここ(当時、働いていたゲーム会社)でずっと…今思えばたった5年ではありますが、ひたすら深夜まで仕事をやってきて、できることがあって…でも、なんだか誰にも見られていないような気持ちもあったし、誰にも届いていないような気持ちもあったし、何か「いるんだ」と、ここに。
そのうえで、何か言えることがあるし、届けられるものがあるんだって気持ちだけが、衝動だけがあって、作り始めて。
で、会社を辞めて1本、『星の声』を作ったんですけど、その時に持って行ったのが短編専門の映画館ですね、いわゆる単館です、下北沢に「トリウッド」っていうちっちゃい映画館があって。
初日っていうのが、やっぱりあるわけですよ、自主制作でも最初の劇場の日というのが。
「初日、舞台あいさつやってよ」って言われて、「あぁ、なんかプロみたい」って思いながら下北沢に行ったら、なんかですね、行列ができてるんですよね。
で、「この行列は何かな?」って思いながら、まぁ自分とは無関係だと思いながら行ったら、それが自分の映画を見に来てくれている人たちの列だったんです。
あいさつして、ものすごい緊張して何しゃべったか、もちろん憶えてないですけど。
まぁ、50人ぐらいの箱なんですけど、何か言ったんでしょうね、あいさつ。
で、上映22分終わったら、すごい拍手が起きたんですよ、それが生まれて初めての経験で。
それがなんていうか、本当に大きな経験だったんです。
たぶん、拍手の残響みたいなものが今でも映画作りをやっている自分のモチベーションのひとつになっている気がするんですけど。
認めてくれた…ずっと息を止めていて、湖の底みたいな気分で毎日作っていて、そうですね…顔が出たっていう感じだった気がしますね。
拍手を浴びることができて、人生で初めての…たぶん拍手で、そこから、アニメーション監督らしいことをやり始めていくようになりましたね。
クラスで2、3番目ぐらいには上手いな、ぐらいの気分はあったんですけど、背景とか好きだったんです、人間にあまり興味が…もう風景画ですよね、色も好きでしたよ。
僕は、雲の形と雲の色でした、雲の絵を水彩絵の具で描いてました。
やはり個人差がありますね、僕は難しい素材だと思います。
雲って、漠然と描くと本当に漠然とした雲になるんですよ。
子供に、「雲描いて」って言った時に、こうなんか、ポカポカってやるじゃないですか、ああいうものが大人であっても、それはディテールはあるんだけど、ああいう印象のものになったりするんですよ。
雲って、やっぱり気象現象の総体じゃないですか。
そのバックグラウンドに、上空はどのくらい強い風が吹いているのかなとか、寒いのかなとか、そういうことになんとなく体感があると、いい雲になるような気がしますね。
言葉とか、あとリズムとか音が好きなんですよ…音が…音楽も好きだし。
そうすると、モノローグってちょっとダイアログ(会話)と違って、少し音楽に近いような気がするんですよね、まぁ詩のようなものであって。
音から組み立てていくと、どうしてもモノローグが欲しくなってしまうし。
でも、怒られたりするんですよ、「アニメーションだからモノローグなんかいらないじゃないか、絵で表現すればいいじゃないか」と。
もう、大変にたくさん(意見を)いただくんですが、でもなんか欲しいんですよね。
1本の映画が、1個の長い時間軸の1曲みたいな、1曲を聞いたあとみたいな気持ちになってほしいっていうのがどこかである。
あとはもう単純に幼少期からの何かでいえば、『北の国から』という、あのドラマが好きで、(俳優の)吉岡秀隆がモノローグでしゃべるじゃないですか、「富良野は寒いわけで」みたいなことを言いますよね。
なんか、サバイブなのかもしれないですよね、モノローグで少し、一生懸命、彼ら(主人公たち)を俯瞰して見て、自分たちの共通点みたいなものを、ただ似ていたではなくて、何が似ていたのかというところまで一生懸命、引っ張り出してきて、それによって状況を少しでも客観視して、なんか未知の巨大な悪意を持った人生みたいなものに立ち向かったり、乗り越えたりしよう、みたいな気持ちがモノローグを使うところに入れているのかもしれない。
(NHK『SWITCHインタビュー 達人達』より)
明石家さんま(あかしやさんま 1955年7月1日‐)
お笑いタレント、元落語家
落ち込む時ってあるんですか? という質問に対しての回答。
ない。
落ち込む人間とか、ストレスを溜める人間は、自分を過信してるやつらなんで。
「もっとできたんじゃないか…」とか「あぁ、もうちょっと笑いとれたんちゃうか」とかいう芸人も多々いるんですけども、俺は自分を絶対過信してない。
「こんなもんだ」って、いつもあきらめてます。
いつも一生懸命やってるの、見てるよね? ねぇ?
あれでダメだったら、もうどうしようもない、もう力不足。
(日本テレビ『誰も知らない明石家さんま初のロングインタビューで解禁!』より)
杉本博司(すぎもとひろし 1948年2月23日‐)
現代美術作家、写真家
8×10(エイトバイテン)の大判カメラで撮影した、『ジオラマ』、『海景』、『劇場』、『建築』など今も続くシリーズの制作で世界的に知られている。
アメリカに若い頃から渡って、それでいろいろ日本のことを訊かれるようになって、禅のこととかも。
その当時、特に70年代はヒッピーカルチャーの時代に当たりましたからね、みんな、もう禅に夢中になってる頃ですからね。
「お前、悟ってるのか?」とか訊かれてですね、どう答えたらいいものかなというですね。
まぁ悟ってないとは言えないですわ、日本人だから。
とりあえず、「悟ってるけど、お前はまだなのか?」とかいうふうにね(笑)
で、急いで、いろいろ禅関係の書物や何か読んだりしてですね。
まぁ、日本文化っていうのかな…に触れて、古典も読むようになって、『平家物語』等も読むようになりました。
やっぱり、すべての日本の美意識に流れている、諸行無常観っていうのはあるな、これは滅びの美学っていうことですかね。
だから、武士の生き方っていうのもありますしね、武士もいかに美しく死ぬか。
『平家物語』なんかでも、平家が滅亡する話で、いかに美しく死ぬかという、そこがクライマックスなんですよね。
だから、そういうものは、日本の特殊な…自然を見ながら、自然の中で移りゆく、そういう、自然の流れと人間の栄枯盛衰の流れがかぶさってると思うんですよね。
物に対する、まぁ、物フェチなんですけどね…(たとえば)化石も写真とまったく同じような装置なんですよね。
海底火山の噴火でもって、ある日、自由に生きていたウミユリたちが一瞬にして閉じ込められてしまって、それから何億年と経ってから開けてみると「こういうことだ」とわかるわけなんですよね。
ですから、時間意識をもう1回、咀嚼できる物の力…今でも、しぶとく生き残ったものたちっていうのはですね、生き残ったことだけで強い存在理由があるわけなんですよ。
発信する力を持っている物たちっていうのを集めるということが僕の仕事かなと思ったんですね。
時間が、そのまま氷漬けになっているような物たちっていうのを集めることによって、まぁ時々、写真も交えながら、物に語ってもらう、写真にも語ってもらう。
「こんなことがありましたよ」、「こんな不幸もありましたよ」、「将来は、どうなるんでしょうか」と、そういうような。
時期の大きなくくりで、大風呂敷を広げて考えるっていうね。
人間って何だろうな? ということに非常に興味があるわけなんですよね。
なんで、人間は人間になれたのかなっていうことを、ずーっと考えてきたわけなんですよね。
昔、動物だったわけですが、動物から進化したといわれるんですけども、これはやっぱり時間という意識じゃないか、時間観念を人間が得たことによって、文明が、意識が…意識の発生と時間を感じるということが同じなんじゃないかと思うんですね。
人間っていうのは、昨日があって、今日があって、明日がある。
未来ということを照射して考えることができるようになった。
ですから、過去を振り返って、起こったことが未来に起こるということを自分の中で、脳のシナプスの中ですよね、情報化して溜めておくことができるようになった。
時間の意識があってこそ農業もできるんですね。
今年、春に種をまくと、秋に収穫できると、これは時間の意識があるからなんですよね。
動物を家畜化するということもそうですよね。
だから、時間というのはやっぱり、時間の観念の発生…それは、どうやってそれをアート化するってことでもないんですけども、写真、カメラが発明されたことによってね、時間を止めておくことができるようになったというんですかね、記録をコレクションできるということになったんですね。
ですから、洞窟壁画を人類が描き始めた、表現するということを得たのと同じくらいのインパクトがですね、絵を描き始めてから5、6千年経って、写真が発明されたことによって人類がまた違うレベルに入ったと思うんですね。
なんとなく、時間意識の発生ということを考えながら写真をいじってると、カメラっていうのはタイムマシンになるんじゃないかと。
あり得ないタイムマシンに乗って、本当に新石器時代に戻って、それで新石器時代人になって僕は写真(代表作のひとつ『海景』)を撮ってくる。
「これが、古代人が見据えた海ですよ」と、もう本当になんか、まぁ詐欺師のような(笑)
嘘も方便、という。
それらしく自分の気持ちを導入して、整理して、導いて、「あぁ、古代人はこういうふうに見てたんだろうな」という景色が見つかるまで、ずーっと旅して探しに行くわけですね。
見えないものっていうか、何かの気配とか、そういうものがあることを証明したいと思いますよね。
でも逆に、あることが証明できないということを証明することによって、見ること以外に何か存在することが絶対にあるんだと、そういう逆の証拠を突きつけるっていうんですかね。
やっぱり何かこう…現実浮遊感みたいな、観念上だけであるというか、つねに真夜中なんか1人で沈思黙考ではないですが、何か夢想してるわけですよね。
そういう時に、映画館の像(代表作のひとつ『劇場』シリーズ)が湧いてくるっていうんですかね。
「あぁ、これはそうか、そうして、こうやって映画館で2時間、カメラ開けとくと、たぶん白くなって光の塊になるな」って、そういう…ある意味では、観念がビジュアルをもたらすのか、見えたビジョンを観念化するのか、どっちがどっちなのかわからないですけどね、それで実際にやってみようと。
だから、化学の実験みたいなもんですよね、たぶんね、ありっこないよと思うんですが、まぁとりあえず実験しましょう、ということで実験してみたら、意外とビギナーズラックみたいな。
「あぁ、本当に撮れてるよ」と自分でも驚く(笑)
哲学者ではないわけですからね、難しいことを「これだけ考え抜きましたよ」というのでは、つまらないんです、リアリティがないというかな。
やっぱり、造形っていうか、目に見える美しい形っていうんですかね、それが美しく見えないと嫌だっていうんですかね(笑)
作品にならないっていうか、美しくなるまで研究を重ねて出せるものにしよう、ということですよね。
25歳か26歳の時にニューヨークに渡って、そこでアーティストになろうという決心をしたのは…だからまぁ、普通、子供の時から絵が上手くてアーティストになったっていうんじゃなくてですね、僕は写真家になろうとも思わなかったんです。
まぁ、写真が上手かったから、食うには写真かなと思ってニューヨークに行って、コマーシャルの写真をやろうかと思ったんですよね。
それしか仕事がないと思った。
ジャーナリズムとか、そういうのもありますけども、まぁコマーシャル写真かなと思ったんですよね。
で…ファッション写真なんかも、きれいな女の子がいっぱいいるし、おもしろいかなと思ったんですけども、実際そいうところにアシスタントに入ってみたら、「いや、これは一生やる仕事じゃないな」と。
じゃあ何をやろうかなということで、ニューヨークで初めて画廊を回ってみたんですね、そうしたら、ドナルド・ジャッドの箱が並べてある展覧会と、ダン・フレディの蛍光灯がただ光ってるだけの展覧会ってのを観て、「こんなんで食えるんだ!」という(笑)すごい驚きでしたね。
そこでふと考えて、現代美術というのは変なことを考えれば考えるほど、ほめられるっていうね、そういうような職業があるんだっていうことに気がついたわけですよ。
「あ、これだったら僕でもできる」かなと、じゃあ、どうやってこの世界で売り込みをかけるかということで、戦略的にどうやってアーティストになるかということを考え始めたわけですね。
その時に、じゃあ、彫刻とか絵っていうのも…だめでしょうと、やり尽くされてる、(現代美術は)変わってなくちゃいけないんですから、とにかく。
で、写真というものは技術を持ってるから、自分はこの技術を生かして現代美術、ただの写真じゃなくて現代美術として見てもらう写真を作ってみようと、いうふうに戦略を考えた、人生の、初めて。
「あぁ、このままやっと食えるようになるんだ」と思ったら大きな間違いで、食うか食わずかっていう状態で、作品も最初は本当に数百ドルでしたからね。
それではやっぱり、ちょっと食えないし、結婚して子供も生まれたんで、それでたまたま日本の古民芸みたいなものを扱う店をね、妻が作るっていうんで、それを協力して。
そうこうしてると、子供は手が離せないんで、僕が買い付けに行ってくれって言われて、日本の骨董界に今度は入っちゃったわけですよね。
それもまた、おもしろくなって、カメラより以上にですね、日本の歴史を辿るには古美術を探し回って、その物から伝わってくるものっていうんですかね。
それで、古美術収集家および古美術商に急になってしまった。
昼間はギャラリーをやってまして古美術商、6時に閉店してから暗室に入るという生活でしたね。
頭の中で抽象的に考えるっていうのは、これ、何も材料がなくて考えられるわけじゃないですね。
何かから影響を受けたシグナルを、どう咀嚼していくかっていうね。
ですから、何かひとつの物を買うと山のように本を買うんです、それに関連する資料っていうのをばーっと、神田の古本屋に行って、ざーっと漁あさっていくわけですよね。
それで、血肉化した知識というのが自分のものになる。
「あぁ、これはこういうもので、確実にこういうものだ」っていうことがわかる。
物を人に売るわけですから、わからない物を売るわけにはいかないわけですから、だから時々やっぱり偽物とかいろいろ間違いはあるんですけどね。
それは、もちろん失敗はあります。
偽物を買ったからこそ初めて、偽物の存在感というものを体感できるわけですから、偽物を買うことも修業のひとつだと。
やっぱりその、偽物作りの心の姿っていうのが物に託されているわけですから、それを感じなくちゃいけないわけですよ。
なんかこう、社会のためになろうとか1回も考えたことはないんですけどね(笑)
ただ、自分がやっていることというのは、人類の歴史そのものを俯瞰できる、ひとつの自分の立場を得たいなという気持ちが強いんで、そんなことがわかったら、また人類全体の知識の共通遺産としては何か残せることがあるかなとは思うんですよね。
何か自分で目標を立ててっていうことは、若い頃はあったんですけども、今はこう…諸行無常観のほうが強くなってるというか、流れに任せて、自分で興味のままに流されてきたなっていう気持ちもするんですね。
なんかあの…盲目の琵琶法師になったみたいな感じがしてね、べんべんべんと弾きながら語りをやっていると。
で、「沙羅双樹の花の色…」っていう感じで、「諸行無常の響きあり」っているのを1曲ずつ歌って歩いてるっていう、そんな感じが、今ふと、ちょっとしたんですけどね。
(NHK『SWITCHインタビュー 達人達』より)
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