TAKURO(1971年5月26日‐)
1988年の結成以来、1度も活動休止をしたことのないバンド、GLAYのリーダー、ギター。
母はシャンソン歌手。
3歳のとき、不可抗力ではなかったらしい交通事故で父を亡くしたという。
「最初、詞からスタートしたんですよ。中学生の抑えきれない衝動みたいなものを…ギターも始めてまだ間もないっていうことで、だから鼻歌で作るしかないんだけど、やっぱり好きなアーティストのように、おしゃれな感じにはならないから、“俺は今、曲書けないから曲作りはあきらめて、THE MODSの『激しい雨が』に俺が詞をつけよう”っていう。
自分の…函館の田舎町の少年の衝動をMODSの歌詞を抜いて書いていくうちに、あぁ、型ってあるな、なるほど、佐野元春さんだったら8小節の文字量の多さってすごいけれども、山下達郎さんは少ないなとか。サザンの桑田さんは何言ってるかわかんないなとか、英語みたいに聴こえるけど日本語だったんだ、とか。
少年ながらに、あぁ、これだったら曲が書けなくてもできるかもってなって、詞ばっかり書いてたんですね、いわゆる替歌ばっかりですよ。
としたらもう、こっちは無限大の作曲家を抱えた売れっ子作詞家ですね。じゃあ、よし、ポール、ちょっと曲書いてくれよ! みたいな感じでビートルズから持ってくりゃいいわけで。
で、後からになって、ようやくいろんな人たちのメロディが体にしみ込んできて、昇華されてきて、ようやく、ポロンって1曲目ができるんですけど」
「“また、こんな感じ?”っていう声が聞こえてくるまでは、やっぱり、やり続けないと。
次から次へとスタイルを変えていると、やっぱり、その都度そのスタイルのファンの人はいても、そのスタイルをやめた瞬間、“ちがうね”って。
だから、GLAYがいきなりダンスミュージックとかにならないのは、そういう理由ですね」
「曲作りの重圧っていうのは、ほぼ意味がない、と僕は思いますね。
少なくとも、このプロジェクトをやったことによって、お互いいい成長ができたよねとか、かけた金は回収できなかったけど、それ以上の経験したよね、とかっていう言葉をひとつ出すことができたら、そのプロジェクト自体は成功。
けっして、結果だけで、どうこうではないんだっていうのは、いろんな人たちの背中を見て、ちょっと感じていたので、それを重圧とは呼ばなかったし、感じなかったですね」
「幸せになるってことが僕にとっては、いちばん大切なことで、音楽やってて幸せじゃないってのも、おかしい話だし、音楽をやるために幸せをあきらめるってのも変な話なので、やはり関わる人みんなに幸せになってほしい。
じゃあ、子供ができて妻が人手が足りないっていうときに、
“こちとらGLAYだ、そんな、もう時間ないよ、海外レコーディングだ、やれツアーだ、新曲だ”って言ってたら、即効、愛想つかされんだろうなって思って。
子供ができたってなった瞬間に、“あと10ヵ月だ、よし500曲書こう”つって。
子供の世話をして時間がなくても、“曲出せ!”って言われたときにすぐ出せるように500曲作ったんですよ。断片も含めてね、サビの1行だけとか、タイトルだけとか、コンセプトとか、こんな感じの曲っていうのを500曲くらい書き留めて、記録しておいて、
“よっしゃあ、生まれてこい!”って。
“案の定、手がかかるな”みたいな。
“曲作ってるヒマねえな、だけど大丈夫”って。
あれは本当、助かりますよね。それは曲作りの中で、また大きなターニングポイントでしたね」
(NHK『SWITCHインタビュー 達人達』より)