2021.10.31 Sunday
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2013.12.24 Tuesday
アノマリーの寺山修司が遺したもの
今年は、寺山修司の没後30周年らしく、久しぶりにメディアでその名前を見た。
有名なエッセイ、『書を捨てよ、町に出よう』を読んだのは、
もう25年以上前のことだ。
しかしそのとき、僕は最後まで読まなかった。読むことができなかった。
途中で、「もう、いいか」と、その書を捨てた。
なぜか、ここには「答え」はないと感じたからだった。
当時は物足りなさも感じたが、
今回、あらためて考えてみると、その理由がわかった。
そして、彼の正体がわかった。
なるほど、彼もまた、次元トリッパーだったのだった。
寺山は、詩人、歌人、劇作家、映画監督、演出家、作詞家、脚本家、小説家、
俳人、随筆家、写真家、俳優、競馬評論家などさまざま顔を持ち、
多くの作品を残したが、
それらは、少しずつ微妙に違うパラレルワールドの増殖のようなものだったのかも、
と感じた。
「寺山修司」という肩書きも作品も、すべては大元のコピーというか、
寺山という存在が、その所属するホストコンピューターから
ダウンロードされたもので、
どの寺山も、じつはホログラム映像のようなものだったのかもしれない。
本人が自分で、「職業は寺山修司」と言っていたというのも、うなずける。
切っても切っても、その断面は金太郎飴のごとき、「寺山修司」が顔を出す。
寺山の作品を、日本文学が得意とするところの、
私小説の人間的、作家的な苦悩と結びつけたい人もいるだろうが、
それはどうだろう。
母との関係が文学的に影響を与えたというが、
それは、後づけのようなものではなかったか。
寺山は、アナログとは、ある意味で対極の存在。
この人は、かなりデジタルな存在だったのではないかと感じる。
マザーからダウンロードされた「寺山修司」は、さまざまな次元に存在しているが、
そのひとつのヴァージョンが、この時間軸の地球に産み落とされた。
しかし、この世界にダウンロードされたヴァージョンの「寺山修司」は、
データ通りの動きをしたのだろうか?
それとも、アノマリー(ある法則や理論からみて異常、
または説明できない事象や個体。原則からは説明できない逸脱、
偏差を起こした現象)だったのか?
そこにこそ、寺山修司を解読する楽しみと答えがあるのかもしれない。
ETV特集「寺山修司という宇宙」というTVプログラムを観たら、
興味深い映像が流れていた。
寺山が亡くなった2年後、インタビュアーが寺山の母・はつに尋ねた場面だ。
「寺山さんが亡くなって2年が経ちますが……」
という声をさえぎって、はつは言った。
「お亡くなりにはならないよ。いなくなっただけで、どっかにいますよ」
エルビス・プレスリーかっ!? というツッコミはともかく、
彼女の津軽弁が、恐山のイタコのように聞こえた。
母には息子の正体がわかっていたのだろうか。
よくよく見れば、寺山の顔は、
あの有名な、青森の亀ヶ岡遺跡からも発掘された、
縄文時代の「遮光器土偶」のようでもある。
宇宙服を着た、超古代の宇宙人飛行士説もある、あの奇妙な土偶だ。
ようやくわかった。
寺山を読んだときの、あの奇妙なズレ、違和感の正体を。
あの「既知感」の正体を。
ホログラムのごときカリスマの、次元移動の痕跡を、
人は、ある種の「あこがれ」を持って見ていたのだということを。
そして自分もまた、パラレルを旅する次元トリッパーだからこそ、
すでに知っていた、ということを。
そうならば、特定のファンたちが思い、感じるところの、
「寺山は僕自身だ」とか、
「太宰は、僕のことを書いてくれている」だとか、
「村上春樹を読むと、なぜか自分にシンクロする」とかいうことも、
小さな閉じた世界の戯言だと切り捨てるわけにもいかないのかもしれない。
なぜなら、あなたは寺山であり、寺山は太宰であり、
太宰はあなたの父であり、あなたの父はあなたの孫であり、
あなたの孫は村上春樹であり、村上春樹はカブトムシであり、
カブトムシはキハダマグロであり、キハダマグロは僕でもあるからだ。
まぁ、こんな文章のほうが、よほど戯言だと切り捨てられるだろうけれど。
亡くなる37日前のインタビュー映像で寺山は語った。
「ただ僕はあの、物語をね中断してしまわないとね、気がすまないと。
で、物語が物語としての流れの中で完結してしまうとね、
それはようするに、観客の中にはなんも余白が残されないわけで。
つねに物語ってのは半分作ってね、で、あとの半分を観客が補完して、
なんかひとつの世界になっていく。
それがやっぱり、演劇のひとつの可能性じゃないか……」
やはり、自分の人生も、今回の生では終われないのかもしれない。
人生というドラマは、自分と、自分が出会った人との関係の中で進行して、
自分では埋められない余白を誰かが埋めてくれながら、
結局は完結せずに次に持ち越して、永遠に続いていく。
そして同時にその演目は、すべての人に共有されている。
人生という長いスパンの中では、
本当は誰もが、途中で降りることも、投げることもできない。
今回だけでも終われない。
だから、途方に暮れながらも、人生という舞台をやり続けるしかない。
他に道はない。
寺山が死の前年に書いたという詩には、
アノマリーである自分に気づいてしまったかのような一節が書いてある。
「懐かしのわが家」
昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかゝって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森市浦町字橋本の
小さな陽あたりのいゝ家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
at 00:33, maricro15, -
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2013.12.12 Thursday
生命のコード(2)グラスフィッシュの夢
グラスフィッシュと呼ばれる魚がいる。
インドシナ半島あたりの、主に淡水域に生息するスズキ目タカサゴイシモチ科の魚で、
体が透明なため、骨や内臓が透けてシースルー。
それで、観賞魚として人気があるそうだ。
以前、もう2年くらい前だろうか、家族でテレビを観ていると、
グラスフィッシュの群れが映し出された。
すると、長男Yが言った。
「あれはパパだよ、あの一匹一匹がパパなんだよ。あれはパパの命なんだよ!」
通常、子供がこんなこと言ったら多くの親は困惑するだろう。
「何言ってんだろ、この子大丈夫かしら……」
親から見たら、そんな感じだろう。
でも僕は、正直うれしかった。
こんなに身近に、次元トリッパーがいたとは!
うすうす気づいてはいたが、それが息子だったとは!
実際、頭で考えてもわからない。
でも、魂なのか何なのか、違う角度から感じてみれば、
その通り、厳格でクリアな気づきだ。
まさに、荘子の「胡蝶の夢」そのままのような話である。
そうか、そうなのだ。
僕は魚だったのだ! という驚くべき真実!
僕がグラスフィッシュの夢をみているのか?
それとも、グラスフィッシュが僕の夢を見ているのか?
結局は人間も蝶も魚も、みんないっしょ。
あなたは虫、キミは花、
隣のあの人は齧歯目(げっしもく)、哺乳類。
そんな話をすると、妻は完全にあきれ顔だ。
ところで、今年、NHKで放送され話題になった「ダイオウイカ」。
深海の帝王。
北欧神話に出てくる船を沈める巨大生物・クラーケンや、
ジュール・ヴェルヌのSF小説『海底二万里』の、
船を襲う巨大イカのモデルともいわれる。
その体長は、今まで発見されたもので18mにもおよぶという。
眼球の大きさは直径30cm。
映像で観た、生きたダイオウイカの体表は、メタリックな黄金色に輝いていた。
この番組のプロデューサーが語った。
「ダイオウイカの生きている映像を初めて見たとき、
うまく言葉にすることができなかった。
これほどまでに綺麗な、神秘的な生きものがいるのだろうかと。
去りゆく姿には知性すら感じたんだ」
ちなみに、手元にあった国語辞典で「知性」を調べてみると、
こう書いてある。
ちせい【知性】 人間の精神が持つ思考・判断の能力。特に、ある事物についての
抽象的、概念的な認識能力。
なんだかよくわからない。
「人間の精神が持つ」って、どういうことだろうか?
まぁ要するに、人間もダイオウイカも形は違うが、
本質はいっしょ、ということでしょ?
そういうことでいいんじゃないだろうか。
「考えるな、感じるんだ」、ということだ。
at 23:55, maricro15, -
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