スポンサーサイト
at , スポンサードリンク, -
-, -, - -
*マリクロ|電子書籍総合出版社 作家ブログ*
at , スポンサードリンク, -
-, -, - -
サン=テグジュぺリとリチャード・バック。
ともに、物書きであり飛行機乗り。
2人の代表作といえば、一般的には、『星の王子さま』と『かもめのジョナサン』。
ともに“寓話”という形をとった作品で、
前者は世界中で8,000万部、後者はアメリカだけで1,500万部も売れているという。
2つの小説を同じようなものととらえる人もいるらしいが、
似て非なるもの、何かが違う。
2人には名言や名フレーズがいろいろあるのだが、
それを読み比べてみても、2人の“飛び方”の違いがなんとなく見えてくる。
まずは、サン=テグジュぺリ師匠から。
ぼくの言ってた秘密っていうのはね、とても簡単なことなんだ。
心で見なければ、ものごとはよく見えない。
大切なことは、目に見えないんだよ。
人生には解決法なんかないんだ。
あるのは、前に進む力だけだ。
解決法は、後からついてくるものさ。
人生は矛盾だらけだ。
やれるようにやるしかない。
それでも人生は続いていく。
どこにでも好きな方に歩いていける。
ぼくは自由だ……。
だが、この自由はほろ苦かった。
世界と自分が、どれだけつながっていないかを思い知らされた。
救いは一歩踏み出すことだ。さてもう一歩。そしてこの同じ一歩を繰り返すのだ。
とても真面目な“人”だったのだと思う。
あれこれ見えすぎてしまって、
つながっていると思っていたものが、そうではないことに気づいてしまった。
そうして、人生を“こじらせてしまった”まま、空の彼方に散ってしまった。
一方、リチャード師匠の場合。
プロの作家とは、書くのをやめなかったアマチュアのこと。
自由が欲しい時は、他人に頼んじゃいけないんだよ。
君が自由だと思えば、もう君は自由なんだ。
妙なものだな。移動することしか念頭になく、
完全なるもののことなど軽蔑しておるカモメどもは、のろまで、どこへも行けぬ。
完全なるものを求めるがゆえに移動することなど気にかけぬ者たちが、
あっという間にどこへでも行く。
おぼえておくがよい、ジョナサン、天国とは、場所でもない、時間でもない。
というのは、場所や時間自体は、そもそも何の意味ももたぬものだからだ。
思った瞬間にそこへ飛んでゆくには、ということはつまり、
いかなるところへでも飛ぶということになるのだが、それには……
まず、自分はすでにもうそこに到達しているのだ、
ということを知ることから始めなくてはならぬ……
問題の解決を望まないことが問題である人間の問題を、
解決してやることは誰にもできない
「空はいつだって完璧さ」
「一秒ごとに変化してるのに完璧だって、そう思うか?」
「ああ、海もそうだ、完璧だ。
完璧であるためには、一秒ごとに変化しなくてはならない、どうだ勉強になるだろう」
この、すっとぼけた感じをユーモアと受け取るか、
何かの真実があると受け入れるか、
それともイカれた男のたわごとととらえるかで、
この人の人物像は、まったく違う顔をみせる。
実際、『かもめのジョナサン』に新興宗教の布教的なものや、
自己啓発セミナー的なにおいを感じる人も多いというが、
今読むと、なるほどスピリチュアル世界の住人たちにお馴染みの、
世界観や価値観がてんこ盛りで、ハマる人はハマるだろうが、
拒否反応を示す人もいるのは、うなずける。
彼は、生まれながらに“こじらせている”自分を他人事のようにしながら、
つまり、初めからつながってなどいないという断絶からスタートして、
だからこそ自己完結していける、図太い人という印象がする。
読者を煙に巻きながら、おそらく真面目な顔して、こうつぶやくのだろう。
「どう感じるかは、あなた次第だ。いってしまえば私には関係ない。
でも、すべてはつながっている」
ちなみに、リチャード師匠は、“音楽の父”とも呼ばれる、
あの、バッハの直系の子孫だとか、
2012年には、自家用飛行機を操縦中に電線に引っかかって、飛行機が大破し、
重傷を負ったが死ななかったとか、いろいろ美味しいネタをもっている。
「人間は死なない。なぜなら、魂は永遠だからだ」
そんなことを、どこかで誰かに語りながら、この人自体がイリュージョンのように、
気がつくと、いつのまにかみんなの前から消えているのかもしれない。
以前、ある畜産業界の専門誌を発行する出版社の社長夫妻と話したことがあった。
社長は営業と制作、奥さんが経理と総務全般担当という典型的な中小零細企業だが、
彼女はそれまでの人生を振り返り、言った。
「今まで地面を這いつくばって、砂を噛むような思いをして生きてきた」
そうして、自らが奉祀する神社のお札を納めた神棚に手を合わせるのだった。
高いところからしか見えない景色があって、それを見たいと願う人はたくさんいる。
でも、それを見たからといって幸せになれるかどうかわからない。
見られないからこその、幸せもあるかもしれない。
飛びたいと願いながら、飛ぶことなく死んでいくのも人生。
何度も飛ぼうとして失敗して、挫折するのも人生。
カゴの扉は開いているのに、そこから飛ぼうとしないのも人生。
飛んで、どこか違う世界へ行ってしまうのも人生。
どの道が正しいというわけではないが、
人生のこじらせ方に、その人自身が浮き彫りになるのであれば、
哀しき人間の記録として、
少しは他人を受け入れてみようかと思えてくる。
「人間の胎児の指って、どうやってできるか知ってる?」
と訊くと、大抵の人は、
「指が生えてきて、伸びて成長するんでしょ」と言う。
自分も昔は、そう思っていた。しかし、真実を知って驚愕した。
まったく逆だったからだ。
胎児の指は、伸びていくのではなく、
指になる間の部分が割れて、切れ込みが大きくなっていって指ができていく。
つまり、いらない細胞が死んで、なくなっていって完成する。
それを、細胞の自殺=アポトーシスという。
たとえば、オタマジャクシがカエルになるとき、しっぽが消えるのもアポトーシス。
細胞には、あらかじめ仕組まれている自死のプログラムがあるということだ。
それを知ったとき、いいようのない虚無とやすらぎを感じた。
小説『星の王子さま』の作者であり飛行機乗りの
アントワーヌ・ド・サン=テグジュぺリが、こんなことを書いている。
「完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、
除去すべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる」
(『人間の土地』 新潮社 訳:堀口大学)
航空の世界が速度と高度を競って、しのぎを削った時代、
飛行機は、まだまだ完成や洗練からは遠かった。
そんな時代に書かれた文章だが、
空にあこがれた男が、飛行機や機械についてだけ言っているわけではないのだろう。
彼が空から思い描いた人間の完成形とは、どんなものだったのか。
ところで、文章の極意のひとつに“削ること”がある。
大抵の文章の書き方講座みたいなものにも書いてある。
書き手は、ついつい書きたいことを、あれこれ詰め込みたくなるもので、
終いには、何がいちばん書きたかったことなのかわからないような、
散漫で、どうしようもない駄文になってしまうことがある。
そこから推敲して、削って、文章を仕上げていくのだが、
これが、なかなか難しい。
「もう誰か、バッサリとやっちゃってください」
そんな気持ちになるときもある。
いつでも文章のアポトーシスが起こってくれればいいのだけれど、
どうも、そう上手くはいかないようだ。
逆に、すべてプログラム通りに仕組まれているんじゃないかと思うほど、
字数もピッタリ、構成もカッチリで、つじつまも見事にバッチリ合っていて、
読み返してみると、必要な要素が適切に配置された文章が書けるときがある。
そんなときは、脳内で言葉のアポトーシスが、無意識に起きているのだろうか。
それとも、“あっちの世界”と上手につながった証拠なのだろうか。
“夢はかなう”という奇妙な名前のバンド? ドリームズ カム トゥルーについて、
とくにファンでもないし、昔のヒット曲はカラオケで歌える程度だが、
少し前のTVで、吉田美和氏が興味深いことを語っていたので、納得した。
対話者は相方の中村正人氏。
中村「俺たちの世代ってさ、必ず音楽家になりたいのは不純な動機なのよ」
吉田「あぁ、モテたいとか?」
中村「女の子にモテたいとか、お金持ちになりたいとか、いい車に乗りたいとか…」
吉田「でも、いいよいいよ、すごくいいと思う。動機なんか、なんだっていいんだよ」
中村「だから吉田みたいに純粋に音楽をやりたいと思って生きてきた人に対して、
ものすごいコンプレックスがあるわけ、俺なんか。
でもさ、たとえば表現悪いかもしれないけど、そうやってバンバン曲作っててさ、
自分って天才って思ったことない?」
吉田「んー、直接的に本気で思ったことはないけど、本当に言葉と一緒になって、
最初からあったんじゃないかっていうくらいの詞が来たりとかした時は、
“うまい!”って思う(笑)」
中村「そうそう、その表現だよね。よしだみちゃん、うまいって感じの」
吉田「でもなんか、他人事みたいな感じ。なんていうか、うん……」
こうした感覚は、誰しも日常生活の中で形を変えて経験しているのではないだろうか。
気づくかどうかの違いというか、“他人事”感を受け入れるかどうかの違いというか。
それを直感ともいうが、果たして直感は、どこから来るものなのか。
それをどう受け止めるかが、虚無に落ちるか、
それとも、やすらぎに満たされるかの境界線かもしれない。
しかし、何であれ創作は人任せにはできない。
結局は、自分というフィルターを通して形にしたものであるからして、
やはり最後は、自分のケツは自分で拭くだけだ。
ああでもない、こうでもないと苦しみ、もがき、加えて、削って、
その過程で何かが降りてきたりもするけれど、
完成に至る道程は、人には見せない。
ケツを拭く姿は誰にも見せない。
世の中には、見たがる人もいるし、見せたがる人もいるけれど。
モーツァルトの楽譜には手直しした形跡が一切ないともいわれるが、
そうした伝説を、真実と虚構の膜の間に生み出すことも、創作というものだろう。
| 1/1PAGES |