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*マリクロ|電子書籍総合出版社 作家ブログ*
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『フランダースの犬』といえば、説明も不要だろうけれど、
日本では1975年に「世界名作劇場」で放映されたアニメが有名で、
今でもTVの特番で必ず紹介されるほどの人気がある。
とくに最終回、主人公・ネロとパトラッシュが死んで、
天使たちに導かれ天国に召される場面は、泣けるアニメの定番場面だ。
原作は、19世紀にイギリス人女流作家のウィーダ(1839年〜1908年)
によって書かれた児童文学で、舞台はベルギーのフランドル地方。
翻訳版には、作家の菊池寛や林芙美子ヴァージョンも存在する。
パトラッシュは全身が黄色と褐色の毛で覆われた、耳が立った大型犬として描かれている。
映画では今まで4回実写化され、もっとも新しい1999年版では、
パトラッシュが黒色の毛むくじゃらで耳の垂れた、
ブーヴィエ・デ・フランドルという犬種のためか、あまりパッとしない印象だけれど、
最後にふたり(ひとりと1匹)を迎えに来たのは、
ネロが憧れ続けた画家のルーベンス(1577年〜1640年)。
最後のとき、自分なら誰に迎えに来てもらおうか…と妄想する余韻が楽しめる。
ところで、日本での人気とは対照的に、
原作はヨーロッパではあまり有名ではなく、人気がないらしい。
ヨーロッパ的な価値観ではネロの死は、負け犬の死としか映らないという。
15歳にもなって闘わず、ただうちひしがれて死んでいくとは情けない、
といったところか。
北野武監督の事故後の復帰1作目となった、
映画『キッズ・リターン』はヨーロッパでも評価されたが、
主人公のシンジとマサル、ふたりの青年が大人社会の中で挫折し、傷つき、
それでも最後に強がって、中退した母校の校庭でふたり、
自転車に乗りながら言うセリフに、
ヨーロッパの人たちは、日本人とは違った切なさを感じたという。
「俺たち、もう終わっちゃったのかな…」
「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」
10代後半といえば階級社会のヨーロッパでは道はすでに決まっている。
そんな年代の青年が言うこのセリフは、あまりにも切ないと。
しかし、15歳で自分の人生を決めろだなんて、ちょっと酷じゃないか?
仮に18歳で何かの世界に入って、学び、修行をしても、
この変化の激しい現代において、10年後なんてどうなっているかわからない。
その仕事で一生食べていける保障など、どこにもない。
出版の世界も、この10年で大きく変わった。
15で闘わずに死ねば負け犬と呼ばれ、
18で社会に挫折して、それでも強がって見せれば哀れまれ、
じゃあ、若者はヨーロッパじゃどう生きればいいのか?
挙句の果ては、スペインやギリシャでは若者の失業率は50%を越えてしまった。
若者の感傷を受け入れる日本は、お子ちゃま文化の国だともいわれるが、
ネロやシンジやマサルや、『エヴァンゲリヲン』の碇シンジや綾波レイの
避難場所がとりあえず用意されている、いい国だともいえないか。
だからこそ、日本で漫画やアニメが文化になったのかもしれない。
変化は必然だ。
だからこそ、10代で自分の道を決めるなんて硬いこと考えないで、
この業界が将来有望だとか、少しでも得できる仕事や安定した会社だとか、
そんなこと親や教師も言わないで、
つねに自分も変化、変容していく、そんなしなやかな強さを、
子供たちには手に入れて欲しいと、
いつまでも大人になりきれない自分は思ったりもするのだよ。
小説といえば、今では出版の主要ジャンルのひとつで、
出版社は文学賞など、いろいろ作って権威づけしたり、宣伝したり、
書き手は文学者などと呼ばれて尊敬? されたりもする。
けれども、そもそも「小説」という言葉は古く、中国にあり、
紀元前300年前後に存在した「道教」の始祖の一人とされる、
荘子の書物に初めて登場する。
“小”という漢字は、つまらない、とるに足らない、という意味で、
小説とは、政治や学問には関わらない、
とるに足りない世間話、うわさ話ということだったようだ。
その後、時代は下り、今から1,500年ほど前、三国志の次の六朝時代、
小説は「志怪(しかい)」と呼ばれた。
志=誌で、記すという意味があり、
世間でうわさされる、怪しい話を記したもので、
幽霊や妖怪の話や、伝奇ものは無数に存在する。
この世とあの世の境界をさまよう存在は、
いつの時代も、国は変わっても、大衆、民衆を惹きつける。
そうした志怪小説を集めた六朝時代の書物『捜神記(そうじんき)』に、
こんな話が登場する。
今から1,700年ほど前の晋の時代、
長江の下流、現在の浙江省のある村の農家にふたりの息子がいた。
ある日、ふたりが畑仕事をしていると父親がやってきて、
息子たちをどなりつけ、めちゃくちゃに殴って帰っていった。
なまけていたわけではない。悪いこともしていない。
納得がいかないふたりは家に帰って、母親に聞いてみたが、
父親はずっといっしょに家にいたという。
驚いた父親が言った。
「そいつは、何かの化け物か妖怪が俺になりすまして、お前らをだましたんだろう。
今度会ったら、たたっ斬ってしまえ!」
そこでふたりは刃物をもって畑に行き、化け物が来るのを待つことにした。
ところが、待てど暮らせど現れない。
もう帰ろうとすると、ついに父親がやって来た。
ここぞとばかりにふたりは父親に斬りかかり、
めった斬りにしたあげく、死体を土に埋めた。
ふたりが家に帰って、その話をすると、
「そうか、よくやった」
と父親がほめてくれた。
それから一家は平和に暮らしたが、
あるとき、ひとりの法師がこの家の前を通りかかった。
すさまじい妖気を感じた法師が家の中に入ってみると、
怒った父親がどなりつけた。
「なんじゃ、お前は!」
飛びかかる法師。逃げる父親。
すると父親は一匹のムジナに変身し、法師が捕らえて退治した。
このときはじめて、自分たちが殺したのが本当の父親だと知った息子たち。
兄は首をくくって自殺。
弟は気が狂ってしまいましたとさ……
日本の「のっぺらぼう」の話など、かわいい。
あちらの国は、やることもえげつない、最悪の結末。
何も今の国際情勢や社会的事件に絡めて、
ああだこうだと言うつもりじゃないけれど、
「違い」を認識してつきあうことは大切だ。
それは、日常の人間関係も同じだろう。
他人は自分とは違う。
その当然の境界線を考えもしないで、うかつに飛び越えると、
痛い目に遭うことも多々ある。
安易な「共感」は危険を伴いもする。
けれど、それがまた人間で、
ときには、その飛び越える力が、よくも悪くも何かを変える。
そこで、ドラマが生まれる。
そこは時代も国も、変わらない。
繰り返す、繰り返す……
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