何をするにも自信がもてないのは、もう一人の自分の「つっこみ」が厳しすぎるのかもしれない。
わたしもそうだった。
名前を書く。
ただ、それだけで、「字が下手だな」とか「丸文字だと子どもっぽいかな」とか「早く書かないと相手に悪い」とか、親や突っ込みのキツい友だちが言いそうな余計なセリフが次々飛んでくる。
わたしはこんな自分が嫌だ。
他人に褒められたい認められたいという意識は捨て去りたい。
そう思って生きてきたら、捨てられるようになった。
願えばそうなるものである。
本当は他人の目なんて気にすることはない。
下手な字でいい。
時間を気にせずゆっくり書けばいい。
上手に書こうという意識もいらない。
自分の字は、自分の字。
良いも悪いもない。
文章を書く時も同じ。
まずは自分が書きたいように書けばいい。
でも、書くために必要なのはもう一人の自分。
作家で言えば、編集者のような存在。
ブログで言えば、読者のような存在。
読む人がどんな人かによって、書く人の「らしさ」が制限されてしまう。
わたしは料理が好きだが、「おいしいね」「いいね」「また作ってよ」などと言ってくれない相手には作れない。
味にうるさく、女のなんたるかに厳しい男は、やれ塩がたりないだの、やれ料理が冷めているだの、やれサラダの水切りが甘いだの、いちいちうるさい男に料理なんて作れるはずがない。
書いた文章にも、いちいち「それは陳腐だ」とか「文章が散漫だ」とか「辻褄が合っていない」などとケチをつけたりあげ足をとるような読者だったら、書きたいことなど書けるわけがない。
書くために必要なもう一人の自分をそんな人間に設定する必要はない。
書く時に大切なのは、もう一人の自分をいかに喜ばせるか。
読者は自分だ。
ホッとさせたり、スッキリさせたり、納得させたり。
イライラさせるのだってかまわない。
ミステリー小説なんて、イライラハラハラのしどうしだ。
書くために必要なもう一人の自分を設定するのが難しかったら、「おいしいね」「いいね」「また作ってよ」と言ってくれそうな人を具体的にイメージする。
きっと誰か一人はいるはずだ。
たぶん親でも彼氏彼女でも先生でも友人でもないだろう。
いつも行くコンビニの笑顔の素敵なパートのお姉さんかもしれない。
「おいしいね」「いいね」「また作ってよ」と言ってくれる人がいれば、料理が上手になっていく。
文章も同じです。