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書く治療のはじめ方

 
 悩んでいる人がいる。
 一歩、踏み出せない人がいる。
 心を病んでいる人がいる。

 そんな時は、友人に話す、あるいは話せる友人がいなければ病院の医師に頼って薬を処方しもらうなどの方法がある。
 でも、手っ取り早く一歩踏み出す方法は、書くこと。

 今週、我が家に遊びに来た23歳の女性は、大学を中退し、自分が今何をしたらいいのかまったくわからない状態で、月に一度カウンセリングに通って自分の不安をぶちまける。
 もうそろそろ自立したい、もうそろそろカウンセリングの治療を止めたいという思いを医師に伝えたら、
「せっかくここまで来たのに、いま止めたら逆戻りだ」
 と言われたという。
 結局は続けることにしたらしい。

「だれかに話すように、自分の問題を書き出してみたら?」
 と提案すると、
「書いてはいるんですけど……。やり方が悪いものかな?」
 とだまりこんだ。

 そうなのだ。
 自分と向きあう方法がわからないのだ。
 いろいろネットを検索してみると、「書くセラピー」というのがある。
 書くことはまちがいなくセラピーとなり、ただ「自己分析しても問題は解決しない」ともいっている。

 具体的に、実践的に、書くためにはなにをしたらいいのだろう。
 
1 自己との対話

 わたしが思うに、まずは自己と対話すること。
 自分を見つめるのは、一人ではできない。
 もう一人の自分が必要だ。
 もう一人のキャラをどう設定するかで、対話はまったく別物になる。
 正義感あふれる厳しいキャラに設定すると、自分が苦しくなる。
「今のままでいいんだよ」的な優しすぎるキャラ?
 それもどうだろう?
 あまり考えずに進めたほうがいいかもしれない。

「わたしはコワくてバイトできないです」
 と自分が言えば、
「どうしてコワいの?」
 ともう一人の自分が聞く。
「自信がないです」
「自分のどんなところに自信がないの?」
「相手の望むように、うまくできないと思うから」
「でも、そのバイトは初めてでしょ? だれでも最初からうまくできる人なんていないよ。みんな失敗しながら成長するものじゃないかな」
「でも、失敗したくない。自分が傷づくから。傷ついたら立ち直れる自信がない」
「じゃあ、好きなことからやってみたら?」
「だって自分がなにが好きなのか、わらないの」
「じゃ、なにが好きか、一緒に考えてみようよ」

 といった具合だ。
 

2 他人に見せるためではなく、自分のためだけに書く。

 飾らず。
 ウソをつかず。
 嘘つきなら嘘つきの自分を。
 ありのままに。
 目をそらさず。
 玉ねぎの皮をむくように、どんどん深く深く自分に問いかけていく。
 
「わたしはいつも他人の前では良い子ぶっているんです」
「どうして良い子ぶるの?」
「他人に嫌われるのがコワいから」
「100人が100人、自分を好きになってくれるなんて、ありえないよ」
「でも、みんなに好かれたいの」
「一人でもいれば、いいんじゃない?」
「でも、その一人が見つからない……」
「それは良い子ぶって、自分を飾っているからじゃないの」

 といった具合だ。

 なんだか小説を書くような面白さがある。
 こんどわたしもやってみよう、自己との対話を。



 
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at 09:58, maricro15, -

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作家シャーマン説

 

最近、出会った26歳の女子はカメラマン。

でも、ここしばらく写真の仕事をしていないという。

3月いっぱいで派遣の仕事を辞めて、東京を離れ地元に帰るか、名古屋か大阪に行くらしい。

理由は訊かなかった。大体、想像がつくから。

 

「もう一度、写真の仕事の営業しなきゃ…」とつぶやいた彼女は、以前は報道の仕事をしていたという。

これから何を撮るのかは訊かなかった。

何かが彼女に近づいてきているのを感じたから。

彼女が本当に撮る気があるのなら、撮られるべきもの、撮られたい存在が自分のほうから彼女のところにやって来るだろう。


 

仕事は選ぶものではなく、選ばれるものだという人がいる。

仕事は求めるものではなくて、求められるものだという人もいる。

 

作家の五木寛之氏が、『気の発見』(平凡社)でこんなことを書いていた。

対談相手は、気功家の望月勇氏。

 

「望月 あるとき、気がついたんですね。自分が治すとか、自分が治療してあげているのだという考えは、ひとつの「我」であり、我が強くなるとストレスを感じて苦しむんじゃないかと。

五木 なるほど。

望月 そのうち、私はただ宇宙のエネルギーのパイプの役目をしているのだと考えるようになりました。自分が治すという考え方じゃなくて、なにか大きな宇宙のエネルギーが私の体をとおして、相手にいくと。私は、一本のパイプにすぎないと。そして、それが相手に伝われば、相手のもっている自然治癒力が高まって、細胞が活性化して治っていくから、あとはその人にまかせればいいんだと、そう考えるようになったんです。そうしたら、ストレスは消えましたね。

(中略)

五木 なにが私に書かせているかというと、読者の気持ちというか、目に見えないパワーのようなものなんです。読者は生きていくうえで、一人ひとりがすべて一つの物語をもっている。それを書いてほかの人に伝えたいけど、生活の忙しさなどに追われて書けないでいる。その声なき声が私の体のなかにテレパシーのように伝わってきて、おまえ、書け、と。自分は書かされているんだと考えているんです。つまり、作家シャーマン説なんです」

(引用ここまで)


 

好き嫌いはともかく、マイケル・クライトン同様、五木さんがベストセラー作家である理由のひとつがここにあるようだ。

 

人生では、自分が望んだ仕事に出会えないことのほうが多いかもしれない。

物書きの仕事でも、頼まれるのは自分が望んだテーマでないことがほとんどだ。

でも、そんな仕事に出会えたなら、それは幸運だ。

その仕事を通して、自分と向き合う機会を与えられるからだ。

 

専門外のことや、まったく知らない初めてのテーマでも、物書きは短時間で知識を仕入れて、クライアントが満足する原稿に仕上げて納品しなければいけない。

自分の“思い”など、むしろ邪魔になる。

 

“自我”という自分の思い込みのフィルターを外して対象に向き合うとき、その本質が見えてくる。

物を書くごとに、今まで知らなかった、この世界と人間というパズルのピースを手に入れる。

それはまた、ミクロの自分を通して形を変えて翻訳されて、マクロの世界と人間に循環、還元されていく。

 

ミクロとマクロの相似象、フラクタル。

物書きは、あの世とこの世をつなぐシャーマンのように、

境界線を歩きながら、文章で相似象をつないでいく装置のようなものかもしれない。

 

文章を書くという行為を通して、自分というミクロな存在はマクロな世界の全体に溶け込んでいく。

パイプ、ヨリシロ、お使い、装置、巫女、シャーマンとしての自分。

無我という自由。

制約があるからこその自由。

 

書くべきテーマやメッセージは、向こうからやって来る。

ただ、物書きは自分というパイプの通り道の掃除をして、詰まりを取って、流れるままに準備をしておく。

 

何が流れ込んで来るかは、お楽しみだ。

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at 23:23, maricro15, -

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裏の世界にこそ真実がある?

 

夜、家に帰ると、次男(4)がパパに見せたい手紙があると駆け寄ってきた。

そこには、意味深な数字と記号が書かれていた!

 

2002 011250000 0101101010

2000─ 1128 ●1 00601166 

暗号? 父である俺への挑戦状なのか?

本人に訊いても、意味はわからない。家族の誰も解けない謎。

ただ、手紙を書いたという喜びと満足感で彼の笑顔はキラキラしている。

 

「この子の脳はデジタルなのかもね」

と、妻が言った。 

時代とともに人間の脳の構造も変わっていくのは、ある意味で必然かもしれない。

4歳の彼の脳は、ひらがなよりも数字に反応するのだろう。

 

有名な手習い歌(日本語の文字を覚えるために、誰もが覚えやすい歌の形にまとめたもの)に「いろは歌」がある。

 

いろはにほへと ちりぬるを

わかよたれそ つねならむ

うゐのおくやま けふこえて

あさきゆめみし ゑひもせす

 

ひらがな47文字を七五調の歌にのせたもの、というのは表の顔で、

じつはその裏に隠された意味がある、というのは有名な話だ。

 

色はにほへど 散りぬるを

我が世たれぞ 常ならむ

有為の奥山  今日越えて

浅き夢見じ  酔ひもせず 

 

作者は弘法大師空海、和歌の神とも崇められる柿本人麻呂、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ、役行者とも呼ばれる)など諸説あるが、定かではない。

 

様々な解釈が成されてきたが、大枠では仏教的無常観を歌っているといわれている。

 

花が咲いては散るように、この世という物質世界も有限で、いずれは終わる。

この世界に生まれたからには、誰にも死が訪れる。変わらぬものなどない。

人生という仮想現実世界を超えて、さあ行こう!

それは幻、浅はかな夢のようなものだったと、酔いも醒めるだろう。

それに気づいたなら、本当の自分とは何者か? ということを思い出すだろう。

 

こんな意味だろうか。

 

一見、単純な表の顔の裏に、本当の意味が暗号のように隠されている。

“かごめかごめ”の歌も、そういうことだろう。

 

物事には表と裏がある。

もちろん、どちらがいいとか優れているということではない。

ふたつで、ひとつ。

夫婦も、そういうものでしょう。

そういえば、女の表の顔は観音菩薩、裏の顔は般若、とも申しますな……

 

清濁合わせ飲む、というが、そもそも現象や物事自体に清いも濁っているもない。

それを判断して決めつけているのは人間であり、自分自身かもしれない。

 

表の顔のその裏に、もうひとつふたつ、暗号や意味や物語を潜みこませる。

それは嘘か誠か……

これもまた、物書きの楽しみのひとつであります。

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at 09:31, maricro15, -

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作文「テーマよりメッセージ」(妻より)

 
 前回のブログで梶原裕太さんの言葉を引用した。


「天が与えた試練というには、むごすぎるものでした」


「命の重さを知るには、大きすぎる代償でした」


「しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからのわたくしたちの使命です」


「この地で仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていきます」


 ここに真実があるのは、自分自身が経験したことを自らの言葉で語っているからだ。


 もし、震災とはまったく関係のない人物が語ったら、それは真実ではない。

 とくに最後の言葉を

「この地で仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていってほしい」

 などと言った瞬間にガラガラとすべてが崩れ落ちる。


 わたしはいま、兄の離婚騒動で両親が上京するうえで、どんな言葉を兄と両親にかけたらいいのだろうとずっと頭を悩ませてきた。

 でも、答えが見えた。


 離婚経験のあるわたし自身のことを語ればいいのだ。


 離婚がどんなにつらかったか。

 その経験でどんなことを学んだのか。

 いまの自分はどうなのか。


 もし自分のことを自分のことばで伝えられれば、そこには真実がある。

 でももし、

「この経験からなにか学んでほしい」

 と兄に言ったら、もうそれは真実ではなくなる。

 説教になるからだ。


 ただし本来の説教の意味は、キリスト教で言えば、牧師さんなどが集会で聖書の解釈を示し、聖書の真理をひとつの主題にもとづいてメッセージとして語られることを言うらしい。

 何かを話したり、書いたりするときには、相手になんらかの「メッセージ」を届けられなければならない。


 どんなメッセージを相手に伝えたいか。

 書くうえで大事なのは、テーマよりメッセージかもしれない。 

 ああ、わたしが離婚経験者でよかった!?

 そう思えたなら、長男の障がいのこともいままで経験したつらいこともすべたが宝物になる。






 

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at 11:10, maricro15, -

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裏こそ真実(妻より)


 週刊誌で、

 ○○の衝撃の真実!
 ついに明かされた裏側! 

 などという見出しをよく目にするが、それは本当に真実なのだろうか。
 本当にそれは裏側なのだろうか。

 紙で出版されたものは、すでに表。
 テレビで報道された時点で、それは表。
 真実はいつでも「裏」にあるのだ。

「おそらく、裏担当かもしれないけれど」


 と言っているけど、書くなら裏(真実)しかない。

 それこそが自由な発想。

 それこそが直感力。


 キレイ事じゃなく、策略なく、社交辞令もなく、本心を書きたいと思う。

 

 しかし、表に出たものでも感動させるものがある。

 そこには真実があるからだ。

 昨日は東日本大震災から1年を迎えた3・11だが、去年の気仙沼市階上中学校の卒業式で読まれた答辞はいつ見ても感動する。


 梶原裕太さんは、


「天が与えた試練というには、むごすぎるものでした」


「命の重さを知るには、大きすぎる代償でした」


「しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからのわたくしたちの使命です」


「この地で仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていきます」


 と言った。


 真実はいつでも感動する。


 

 





 


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at 12:33, maricro15, -

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美しい国、それは日本(夫より)


 我が家の桜が、ようやく咲いた。

 早咲きの河津桜で毎年2月の中旬には咲いていたから、今年は少し遅かった。

 一昨年あたりから、夏や真冬に狂い咲きする桜のニュースが話題になっていたが、いつ咲くのが正しいなんてこともないだろう。

 どの桜もそれぞれ、自分が咲くときを知っているのかもしれない。

 桜の花びらは美しい。

 散り際の見事さは、他には比べようのない日本の美しさだ。

 

 西に面した我が家のキッチンの窓からは、富士山が見える。

 冬の富士は空気が澄んでいて、真っ白に雪を被っているから他の季節より大きく見えるが、今年の富士山は、ひと際大きい気がする。

 過去、富士山が噴火するときはいつもより膨張して大きく見えるという。

 いつ爆発するのかは、彼女だけが知っているのかもしれない。

 富士の山は美しい。

 その立ち姿は、世界でも類をみない日本の美しさだ。

 

 日曜の朝、机の上に置いておいた祝詞の本を長男が一生懸命に見ていた。

 パラパラめくったり、まだ難しくて読めないのに興味深げに眺めている。

 どうした? と聞くと、

「んー、何か感じるんだよね」という。

 

 三年くらい前に「一二三(ひふみ)祝詞」を教えてから、ときどき二人で唱えたりしていた。

 一二三祝詞には謎が多い。

 いつ誰が作ったのか記録はない。

 古代から脈々と受け継がれてきたものを、明治まで800年以上、皇室の祭祀を担当していた伯家神道や、吉田神道が使ってきたという。

 しかし明治維新後、神道界では使われなくなり忘れ去られ、今では熱心な研究者や一部の信仰者、マニアにしか知られていない。

『先代旧事本紀』や『竹内文書』という謎の歴史書に記述はあるが、この2冊は偽書とされていて、しかも内容がぶっ飛んだものだけに、今ではオカルト扱いされたりもしている。

 でも、一二三祝詞は美しい。

 

 ひふみ よいむなや こともちろらね

 しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか

 うおえ にさりへて のますあせゑほ

 れーけー ん

 

 ひらがな47文字に、「ん」を加えたこの文字列も日本の美しさだ。

 

「ひふみ祝詞を言うとね、昔に生きていた人たちと、今生きてる僕たちと、未来の人たち全部のことを感じるんだよ」

 と長男は言う。

 そのイマジネーションには親でも驚くが、ひょっとしたらこの祝詞から、彼は日本という国の地層に堆積している文化や日本人の意識を、時空を超えて感じ取っているのかも知れないとも思う。

 その感覚を失わずにいてほしいと思う。

 

 和歌や俳句の短い文章の中に、さまざまな情景や思いを込めることのできる日本人の感性は美しい。

 子供の自由な発想や直観力は大人になったら失われていく、とよくいわれるが、はたしてそうだろうか?

 欲にまみれて、社会の有象無象に疲れて自分を誤魔化しているだけじゃないのか。

 本当は何も失ってなんかいないんじゃないか。

 

 今僕らが生きている時代を、未来の人間たちが振り返ったときに、

 何も価値のない時代だった、ひどい暗黒の時代だったと思い、定義するならば、

 それは、やはり、さみしいと思う。

 

 子供たちや未来の人たちに、たとえ少しでも日本の美しさを、表からも裏からも伝えていくことできるなら、

 名もなき物書きのはしくれの自分でも、文章を書いていく意味はあるだろうと、

 ちょっと真面目に考えてみた。

 おそらく、裏担当かもしれないけれど。

 

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at 11:49, maricro15, -

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作文「文字って美しい」(妻より)

  
 あいうえお
 かきくけこ
 さしすそせ
 たちつてと
 なにぬねの
 はひふへほ
 まみむめも
 やゆよ
 らりるれろ
 わをん

 これが50音。
 美しい。
 
 ひふみよいむなや
 こともちろらね
 しきる ゆいつわぬ
 そをたはくめか
 うおえ にさりへて
 のますあせえほれけ

 これがひふみのりと(一二三祝詞)。 
 美しい。

 ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ

 これがアフファベット。 
 美しい。

 もし、世界がすべてこれらで表現し切れたら、どんなにいいだろう。
 
 アスペルガーの人は、順序だったもの、規則的なものに魅了される。
 反面、予測不可能なもの、不合理なものを嫌う。

 書くことで、規則的になる。
 文字の羅列は、ただ並んでいるだけで美しい。
 予測不可能なもの、不合理なものさえ、書かれることで規則的になる。

 みちのくの
 しのぶもぢずり
 たれゆえに
 みだれそめにし
 われならなくに

 乱れ模様に染めた布のように、わたしの心が乱れてしまったのは、だれのせいでもない、みんなあなたのせいなのですよ、と詠んだ百人一首の河原左大臣は、恋に乱れた心を人のせいにして書き、心を鎮めた。

 宿題の「音読」で読む河原左大臣の歌で、息子はなにを学ぶのだろう。
 読むことが作文というアウトプットに好影響を与えるとは思わないが、きっと声に出して読むことに意味があるのだろう。

 頭の中は、予測不可能なもの、不合理なものだらけ。
 世界は、予測不可能なもの、不合理なものだらけ。

 書くことで、わたしたち人間は、より整然とした存在になる。
 美しくなる。

 
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at 11:37, maricro15, -

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作文「書く時間はいくらでもある?」(妻より)

 
 忙しい忙しい。
 みんなだれでも忙しい。
 遊び、宿題、残業、夕飯、風呂。

 時間がない。
 時間はあるけど時間がない。

 時間は本当にないのだろうか?
 でも意外にそうでもなかったりする。
 頭の中が忙しいのだ。

 あれをやらなきゃ、これをやらなきゃ。
 やらなければいけないことで、頭がパンパン。

 だから書く。
 頭の中のパンパンを整理するために。
 ひと言、メモするだけでいい。
 
「昼食後、1時からミーティング」

 こんなふうに書くだけで、そのミーティングは半分完了したようなもの。

「3時にコーヒーを飲む」

 こんなふうに書くだけで、美味しいコーヒーで飲むためにがんばる。

「夕食後、ブログを書く」

 と書くだけで、なんだか書くための心の準備が整う。

 小学校に通う長男は、毎日「連絡帳」に明日の予定を先生に書かされる。
 ムダのようだが、ムダじゃない。
「明日の予定」を書くことに意味があるのだ。

 発達障がいの子どもたちと一緒に長男は就学前療育を受けたことがあるのが、その際、先生たちはいつも必ずホワイトボードに、「今日やること」を書いてくれる。
 
 何から始めるのか。
 次に何をやるのか。
 トイレタイムはいつなのか。
 いつになったらお昼ご飯が食べられるのか。
 昼食後はなにして遊べるのか。

 子どもたちは、今日やることが目に見えるカタチで提示されただけで、安心して行動できるという。
 書くことで安心を手に入れることができる。

 まずは、
「夕食後、ブログを書く」と書いてみよう。

 ほらほら、なんだか書くための心の準備が整ってきたでしょ?


 

 
 
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at 10:29, maricro15, -

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作文「テーマなんていらない」(妻より)

 
 さて、今日は何を書こう?

 ブログを書こうといざパソコンに向かった時にいつも最初に思うことだ。
 それが「テーマ」と言われるものかもしれない。

 でも、テーマなんて始めから明確にあるわけではない。
 書きながら、思いつき、思いつきながら、書く。
 何事も始めてみなければわからない。

 書くか、書かないか。
 ただ、それだけだ。

 だから、なんでもいいから書いてみよう。
 失敗を恐れず、駄文を恐れず、うまく伝えられるだろうかという不安も投げ捨て、書いてみよう。
 
 小2の長男は、宿題だからやらざるを得ない。
 やるから、文ができる。
 書かなければ、文にならない。
 書くか、書かないか。
 ただ、それだけだ。

 書いているうちにテーマが見つかる。
 始めからテーマを設定する必要なんてない。

 書くか、書かないか。
 ただ、それだけだ。

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at 10:56, maricro15, -

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作文は金魚すくい(妻より)

 
 粗末な炬燵を挟んで僕と母親はひどく遠かった。

 これは田口ランディの『アンテナ』の書き出し。


「ハワイか……」

 これは金城一紀の『GO』の書き出し。


 谷には池が二つあった。

 これは川端康成の『掌の小説』の「骨拾い」の書き出し。


 目を覚ましました。

 これは安部公房の『壁』の書き出し。


 はじめてディーンに会ったのは、ぼくが妻と別れて間もないころのことだ。

 これはジャック・ケルアックの『路上』の書き出し。


 それは人類がはじめて月を歩いた夏だった。

 これはポール・オースターの『ムーン・パレス』の書き出し。


 学校の日、学校帰りこいたろうとらもんとぼくで一緒に小クラに行こうとして行くとちゅうゆきがざばっとふってきて、3人はびっくりしてそばによってみると白い雪がいっぱいあってちょっとあそぶと、その家のおばあちゃんが出てきてやめて小クラに行きました。楽しかったです。
 
 これがうちの息子の作文の書き出し。
 金魚すくいで、どの金魚をつかまえるか迷いながら水の中で右往左往し、結局網が破れてどの金魚も捕まえられなかった様子に似ている。

 やはり、深い余韻が胸に残る絶品の青春小説と言われる柴田元幸訳のポール・オースター『ムーン・パレス』の書き出しはカッコいい。

 たくさん散らばっているものから1つ選ぶのは難しい。
 何かを書くときに、いちばん最初に書く一文で頭を悩ますことが多い。

 それは人類がはじめて月を歩いた夏だった。
 目を覚ましました。

 これらは期待が膨らむ始まりだ。
 一瞬で迷いなく、獲物をつかんだキレ味がある。

 でも、始まりなんてなんでもいい。
 ふっと思いついた言葉を素直に書けば、意外にスラスラ続く。
 始まりは、紐の端っこみたいなもので、掴めさえすればイモずる式。
 頭の中にあるうちは、まだこの世界に生まれ落ちていない実体のないものだが、実際に手の筋肉を使って紙に書き出してしまえば、それはこの世の生まれたことになる。
 
 赤ん坊も生まれてしまえば、まわりの力を借りなりながらも成長し、生きていく。

 パッと浮かんだ「何か」。
 それをうまく掴めるかが作文の勝負。
 金魚すくいと一緒です。
 
 
 
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at 10:37, maricro15, -

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