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*マリクロ|電子書籍総合出版社 作家ブログ*
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最近、出会った26歳の女子はカメラマン。
でも、ここしばらく写真の仕事をしていないという。
3月いっぱいで派遣の仕事を辞めて、東京を離れ地元に帰るか、名古屋か大阪に行くらしい。
理由は訊かなかった。大体、想像がつくから。
「もう一度、写真の仕事の営業しなきゃ…」とつぶやいた彼女は、以前は報道の仕事をしていたという。
これから何を撮るのかは訊かなかった。
何かが彼女に近づいてきているのを感じたから。
彼女が本当に撮る気があるのなら、撮られるべきもの、撮られたい存在が自分のほうから彼女のところにやって来るだろう。
仕事は選ぶものではなく、選ばれるものだという人がいる。
仕事は求めるものではなくて、求められるものだという人もいる。
作家の五木寛之氏が、『気の発見』(平凡社)でこんなことを書いていた。
対談相手は、気功家の望月勇氏。
「望月 あるとき、気がついたんですね。自分が治すとか、自分が治療してあげているのだという考えは、ひとつの「我」であり、我が強くなるとストレスを感じて苦しむんじゃないかと。
五木 なるほど。
望月 そのうち、私はただ宇宙のエネルギーのパイプの役目をしているのだと考えるようになりました。自分が治すという考え方じゃなくて、なにか大きな宇宙のエネルギーが私の体をとおして、相手にいくと。私は、一本のパイプにすぎないと。そして、それが相手に伝われば、相手のもっている自然治癒力が高まって、細胞が活性化して治っていくから、あとはその人にまかせればいいんだと、そう考えるようになったんです。そうしたら、ストレスは消えましたね。
(中略)
五木 なにが私に書かせているかというと、読者の気持ちというか、目に見えないパワーのようなものなんです。読者は生きていくうえで、一人ひとりがすべて一つの物語をもっている。それを書いてほかの人に伝えたいけど、生活の忙しさなどに追われて書けないでいる。その声なき声が私の体のなかにテレパシーのように伝わってきて、おまえ、書け、と。自分は書かされているんだと考えているんです。つまり、作家シャーマン説なんです」
(引用ここまで)
好き嫌いはともかく、マイケル・クライトン同様、五木さんがベストセラー作家である理由のひとつがここにあるようだ。
人生では、自分が望んだ仕事に出会えないことのほうが多いかもしれない。
物書きの仕事でも、頼まれるのは自分が望んだテーマでないことがほとんどだ。
でも、そんな仕事に出会えたなら、それは幸運だ。
その仕事を通して、自分と向き合う機会を与えられるからだ。
専門外のことや、まったく知らない初めてのテーマでも、物書きは短時間で知識を仕入れて、クライアントが満足する原稿に仕上げて納品しなければいけない。
自分の“思い”など、むしろ邪魔になる。
“自我”という自分の思い込みのフィルターを外して対象に向き合うとき、その本質が見えてくる。
物を書くごとに、今まで知らなかった、この世界と人間というパズルのピースを手に入れる。
それはまた、ミクロの自分を通して形を変えて翻訳されて、マクロの世界と人間に循環、還元されていく。
ミクロとマクロの相似象、フラクタル。
物書きは、あの世とこの世をつなぐシャーマンのように、
境界線を歩きながら、文章で相似象をつないでいく装置のようなものかもしれない。
文章を書くという行為を通して、自分というミクロな存在はマクロな世界の全体に溶け込んでいく。
パイプ、ヨリシロ、お使い、装置、巫女、シャーマンとしての自分。
無我という自由。
制約があるからこその自由。
書くべきテーマやメッセージは、向こうからやって来る。
ただ、物書きは自分というパイプの通り道の掃除をして、詰まりを取って、流れるままに準備をしておく。
何が流れ込んで来るかは、お楽しみだ。
夜、家に帰ると、次男(4)がパパに見せたい手紙があると駆け寄ってきた。
そこには、意味深な数字と記号が書かれていた!
2002 011250000 0101101010
2000─ 1128 ●1 00601166
暗号? 父である俺への挑戦状なのか?
本人に訊いても、意味はわからない。家族の誰も解けない謎。
ただ、手紙を書いたという喜びと満足感で彼の笑顔はキラキラしている。
「この子の脳はデジタルなのかもね」
と、妻が言った。
時代とともに人間の脳の構造も変わっていくのは、ある意味で必然かもしれない。
4歳の彼の脳は、ひらがなよりも数字に反応するのだろう。
有名な手習い歌(日本語の文字を覚えるために、誰もが覚えやすい歌の形にまとめたもの)に「いろは歌」がある。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
ひらがな47文字を七五調の歌にのせたもの、というのは表の顔で、
じつはその裏に隠された意味がある、というのは有名な話だ。
色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
作者は弘法大師空海、和歌の神とも崇められる柿本人麻呂、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ、役行者とも呼ばれる)など諸説あるが、定かではない。
様々な解釈が成されてきたが、大枠では仏教的無常観を歌っているといわれている。
花が咲いては散るように、この世という物質世界も有限で、いずれは終わる。
この世界に生まれたからには、誰にも死が訪れる。変わらぬものなどない。
人生という仮想現実世界を超えて、さあ行こう!
それは幻、浅はかな夢のようなものだったと、酔いも醒めるだろう。
それに気づいたなら、本当の自分とは何者か? ということを思い出すだろう。
こんな意味だろうか。
一見、単純な表の顔の裏に、本当の意味が暗号のように隠されている。
“かごめかごめ”の歌も、そういうことだろう。
物事には表と裏がある。
もちろん、どちらがいいとか優れているということではない。
ふたつで、ひとつ。
夫婦も、そういうものでしょう。
そういえば、女の表の顔は観音菩薩、裏の顔は般若、とも申しますな……
清濁合わせ飲む、というが、そもそも現象や物事自体に清いも濁っているもない。
それを判断して決めつけているのは人間であり、自分自身かもしれない。
表の顔のその裏に、もうひとつふたつ、暗号や意味や物語を潜みこませる。
それは嘘か誠か……
これもまた、物書きの楽しみのひとつであります。
「天が与えた試練というには、むごすぎるものでした」
「命の重さを知るには、大きすぎる代償でした」
「しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからのわたくしたちの使命です」
「この地で仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていきます」
ここに真実があるのは、自分自身が経験したことを自らの言葉で語っているからだ。
もし、震災とはまったく関係のない人物が語ったら、それは真実ではない。
とくに最後の言葉を
「この地で仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていってほしい」
などと言った瞬間にガラガラとすべてが崩れ落ちる。
わたしはいま、兄の離婚騒動で両親が上京するうえで、どんな言葉を兄と両親にかけたらいいのだろうとずっと頭を悩ませてきた。
でも、答えが見えた。
離婚経験のあるわたし自身のことを語ればいいのだ。
離婚がどんなにつらかったか。
その経験でどんなことを学んだのか。
いまの自分はどうなのか。
もし自分のことを自分のことばで伝えられれば、そこには真実がある。
でももし、
「この経験からなにか学んでほしい」
と兄に言ったら、もうそれは真実ではなくなる。
説教になるからだ。
ただし本来の説教の意味は、キリスト教で言えば、牧師さんなどが集会で聖書の解釈を示し、聖書の真理をひとつの主題にもとづいてメッセージとして語られることを言うらしい。
何かを話したり、書いたりするときには、相手になんらかの「メッセージ」を届けられなければならない。
どんなメッセージを相手に伝えたいか。
書くうえで大事なのは、テーマよりメッセージかもしれない。
ああ、わたしが離婚経験者でよかった!?
そう思えたなら、長男の障がいのこともいままで経験したつらいこともすべたが宝物になる。
「おそらく、裏担当かもしれないけれど」
と言っているけど、書くなら裏(真実)しかない。
それこそが自由な発想。
それこそが直感力。
キレイ事じゃなく、策略なく、社交辞令もなく、本心を書きたいと思う。
しかし、表に出たものでも感動させるものがある。
そこには真実があるからだ。
昨日は東日本大震災から1年を迎えた3・11だが、去年の気仙沼市階上中学校の卒業式で読まれた答辞はいつ見ても感動する。
梶原裕太さんは、
「天が与えた試練というには、むごすぎるものでした」
「命の重さを知るには、大きすぎる代償でした」
「しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからのわたくしたちの使命です」
「この地で仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていきます」
と言った。
真実はいつでも感動する。
我が家の桜が、ようやく咲いた。
早咲きの河津桜で毎年2月の中旬には咲いていたから、今年は少し遅かった。
一昨年あたりから、夏や真冬に狂い咲きする桜のニュースが話題になっていたが、いつ咲くのが正しいなんてこともないだろう。
どの桜もそれぞれ、自分が咲くときを知っているのかもしれない。
桜の花びらは美しい。
散り際の見事さは、他には比べようのない日本の美しさだ。
西に面した我が家のキッチンの窓からは、富士山が見える。
冬の富士は空気が澄んでいて、真っ白に雪を被っているから他の季節より大きく見えるが、今年の富士山は、ひと際大きい気がする。
過去、富士山が噴火するときはいつもより膨張して大きく見えるという。
いつ爆発するのかは、彼女だけが知っているのかもしれない。
富士の山は美しい。
その立ち姿は、世界でも類をみない日本の美しさだ。
日曜の朝、机の上に置いておいた祝詞の本を長男が一生懸命に見ていた。
パラパラめくったり、まだ難しくて読めないのに興味深げに眺めている。
どうした? と聞くと、
「んー、何か感じるんだよね」という。
三年くらい前に「一二三(ひふみ)祝詞」を教えてから、ときどき二人で唱えたりしていた。
一二三祝詞には謎が多い。
いつ誰が作ったのか記録はない。
古代から脈々と受け継がれてきたものを、明治まで800年以上、皇室の祭祀を担当していた伯家神道や、吉田神道が使ってきたという。
しかし明治維新後、神道界では使われなくなり忘れ去られ、今では熱心な研究者や一部の信仰者、マニアにしか知られていない。
『先代旧事本紀』や『竹内文書』という謎の歴史書に記述はあるが、この2冊は偽書とされていて、しかも内容がぶっ飛んだものだけに、今ではオカルト扱いされたりもしている。
でも、一二三祝詞は美しい。
ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
うおえ にさりへて のますあせゑほ
れーけー ん
ひらがな47文字に、「ん」を加えたこの文字列も日本の美しさだ。
「ひふみ祝詞を言うとね、昔に生きていた人たちと、今生きてる僕たちと、未来の人たち全部のことを感じるんだよ」
と長男は言う。
そのイマジネーションには親でも驚くが、ひょっとしたらこの祝詞から、彼は日本という国の地層に堆積している文化や日本人の意識を、時空を超えて感じ取っているのかも知れないとも思う。
その感覚を失わずにいてほしいと思う。
和歌や俳句の短い文章の中に、さまざまな情景や思いを込めることのできる日本人の感性は美しい。
子供の自由な発想や直観力は大人になったら失われていく、とよくいわれるが、はたしてそうだろうか?
欲にまみれて、社会の有象無象に疲れて自分を誤魔化しているだけじゃないのか。
本当は何も失ってなんかいないんじゃないか。
今僕らが生きている時代を、未来の人間たちが振り返ったときに、
何も価値のない時代だった、ひどい暗黒の時代だったと思い、定義するならば、
それは、やはり、さみしいと思う。
子供たちや未来の人たちに、たとえ少しでも日本の美しさを、表からも裏からも伝えていくことできるなら、
名もなき物書きのはしくれの自分でも、文章を書いていく意味はあるだろうと、
ちょっと真面目に考えてみた。
おそらく、裏担当かもしれないけれど。
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