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*マリクロ|電子書籍総合出版社 作家ブログ*
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映画『燃えよドラゴン』で、ブルース・リーが少年にカンフーの修行をしながら、こんなセリフを言う。 「Don’t
think, Feel!」 キャー、カッコイイ! シビレちまうぜ!! でも、ちょっと待ってブルース師匠、“感じる”ってどういうこと? 以前、文章を書くことに不自由さを感じていた頃があった。 文章が論理的構築を必要とする限りは、何処までいっても「自分」の枠から抜け出すことができないのではないか? と考えていたからだ。 その点、たとえば音楽や絵画の世界は、もっと直感的というか、作為的な自分とは違う次元から降りてくる「何か」、自分を消し去った領域に残った根源的な「何か」を引っ張り出してくる行為に思えて、うらやましい感じがしていた。 自分の中に積み重なった知識や感情、記憶や情報が鬱陶しく感じられて、捨ててしまいたかった。自分を消してしまえば、ラクになれるんじゃないかと思っていた。 そこで、絵を描いてみたが、結局考えてしまって筆が進まない。夜中の寝入り端や明け方の夢うつつのときに、ふといいメロディが頭の中で流れることがあって、これをなんとかしたいと思うのだけれど、楽譜は書けないし、起きて煙草に火を点けるころには、もう何処かに消えている。 じゃあ、瞑想でもしながら心霊世界でいうところの「自動書記」でもやってみようかと、ロウソクとお香を用意してソファに横たわり、「降りてくるもの」を書き留めてみたが、あとから読み返してみると、意味不明な言葉の殴り書きがあるだけで、やれやれ、実験はあっさり失敗した。 それでも、なんとか自分なりに書き続けてみると、文章というのは考えているうちは“動き出さない”ことがわかってきた。 直感や閃きは、思考の中ではなく“書き続ける”という行為、身体感覚をとおして降りてくる。 人間の脳は、絶えず思考を続ける器官なので、その思考のループを書くという身体感覚が遮ってくれると、その隙間に直感や閃きが入り込んでくるスペースができる。その瞬間に、文章に生命が吹き込まれる。 画家や音楽家も創作活動を続けていく中で、その身体感覚をとおして作品を生み出しているのだろう。自分にはどの身体感覚が合っているのかが、続けていけるかどうかの違いなのかもしれない。 だから文章を書く人は、本人が望む、望まないに関わらず、結局は書き続けていくしかなくて、その行為の中でこそ生きていける生き物なのだ。 結局、書き手は書くことでしか自由になれないのだろう。
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