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*マリクロ|電子書籍総合出版社 作家ブログ*
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ある大手転職エージェント会社のサイトによると、
最近の転職成功者の平均応募数は約24社だという。
この数字が多いのか少ないのかよくわからないが、
今年転職した年齢もバラバラな友人たちの中には、
1社目で採用された普段は大人しい、自己アピールが下手なヤツもいるし、
100社に履歴書を送って、「わたしの個人情報なんて二束三文だよ」と笑っていたタフな女子もいるから、ふたりで割ったら平均約50社。
思わず平均値を出してしまったが、「平均」を出すことに一体何の意味があるのかと、たびたび思う。
ところで突然、宇宙に放り出されたら、人間はどうなるだろうと考える。
上も下もわからない無重力、
時間の制約のない始まりも終わりもない世界では、
自分は一体いつ、どこにいるのか? まったくわからなくなってしまうだろう。
するとやはり、「基準」は必要となるだろう。
「土星が見える方向に進もう」とか、「アンドロメダ銀河まで230万光年」とか。
一般社会で生きていくためにも、
やはり何かしらの基準は必要で、
それが平均数というものなのかもしれない。
でもそれは、どこまでいっても実体の見えない、他者との比較でしかない。
自分の過去を簡略化し、企業に気に入られるために平均化したものが履歴書ならば、
本当はその行間にこそ、その人の人生のエピソードや生き様が詰まっている。
けれど、それを表現するのも、読み取るのも難しい。
思いは、なかなか届かない。
「行間を読み取る」というのは、昔から文章の基本のひとつとされる。
読み手は行間から作者、筆者の思いを読み取り、書き手は行間に思いを潜ませる。
書き手の思いを、受け手はさまざまに感じ取る。
受け留める人、否定して批判する人、まったく興味をもたない人……。
そこに文章のおもしろさと難しさがある。
書き手は一体、誰のために文章を書くのだろう?
当時、妻と出会った会社に採用され(ある意味、妻に採用されたようなものかもしれないが)、僕の履歴書に込めた思いは成就されたわけだが、彼女への思いも込められた恋文だったとは、書いた僕はまったく気づいていなかった。
書き手の思いは、しばしば自由に一人歩きするものなのかもしれない。
先日、子供の誕生日だったこともあって、自分の誕生日にまつわる過去の記憶を開放してみた。
すると、見えてきた。
小学1年生の、あるホームルームの時間。
その日のお題は、誕生月ごとに分かれて集まって、みんなで誕生日の思い出を語り合ってみよう、というものだった。
それぞれが12のグループに分かれた。
すると自分の生まれた6月グループには誰もいなくて、ぽつんと一人取り残されてしまった。
そのときの、途方もない孤独感。
自分はみんなとは違う。一人ぼっちなんだという寂しさ。思えば、あれが「人とは違う自分」を認識した初めての体験だった気がする。
子供の頃のかわいい思い出といえばそうかもしれないし、そうした経験を通して、自分と他者の違いを認識していくのが人間なのかもしれないけれど、それまで「いっしょ」だと思っていた人間たちが自分のそばから離れていって、新しい世界で楽しそうにしている光景を見ている感覚は、年齢に関係なく、けっこうみんなどこかで、それぞれのシチュエーションで経験しているのでなないだろうか。
そこにはまた、それぞれの物語の核が潜んでいる。
「自分のかけらをみつける」のは、自分と向き合うことでもあると思う。人とは違う自分、ネガティブな自分、どうしようもなくダメな自分も認めてあげること。
多くの人は、人と同じはイヤだと思いながら、同時に人と違うことは不安だからイヤと思う。だから結局、本当の自分を隠して生きていく。そして、葛藤の中でもがいて生きていく。
でもそこにこそ、文章の、物語の題材は潜んでいる。
本当の自分を探して、見つけて、向き合い、そして吐き出して解放する。
小説でもエッセーでもブログでも、企画書やメールのやり取りでも、どんな文章でも最終的に自分から出てくるものである以上、そのプロセスは変わらないだろう。
そうした作業を繰り返し、文章を書いていくことでしか、人は自由になれないのかもしれない。
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