プロボクサー。現WBA世界バンタム級スーパー王者、IBF世界バンタム級王者。
WBSSバンタム級トーナメント決勝(2019年)での、ノニト・ドネアとの死闘を振り返ってのコメント。
つらいっていうよりも、楽しかったです(笑)
打つのも打たれるのも好きなんですよ、やっぱり。
そこは、まぁ「ボクサーあるある」じゃないですけど、打って打たれる、もう楽しくてしょうがないんですよ。
やっぱり打たれるのも、こう、ワクワクしてきちゃう、みたいな。
アドレナリンですよね、もう殴り合いが楽しいんですよ、やっぱりボクサーは。
プロボクサーになってる人間は、打ち合いが好きなんですよ。
やっぱり、あのシーン(対戦後にドネアと抱き合ったシーン)が、ボクシングをやっててよかったなと思うし、ボクシングのすばらしさ…だと思うんですよね。
倒すために相手を殴るじゃないですか。でも終わったら、そこで抱き合って「ありがとう」って気持ちが出てくるってのが、ほんとボクシングのすばらしさだなと思いますね。
(TBS『サワコの朝』より)
]]>漫画家
代表作に、『Blue』『ありがとう』『レッド』など。
俳優・柄本佑との対談での発言。
ひとつ思うのは、系譜を受け取るっていう…お父さん、お母さんが役者であり、お父さんが演出家でありってのとは別。
そういうのは、なしとしてもさ、自分の周りにちゃんとおもしろいものがあって、それをおもしろがって、それをまた過去にさかのぼっておもしろいものを探して、そういうものを引き継ぐんじゃなくてさ、受け取って、やる。
系譜の見えない人って俺、信じられないんですよね。
過去なんか…誰か他の…よその人は…どうでもいい、「俺は、俺の思いついた、おもしろいものを創るんだぁ」ってさ。「新しいだろ!」って。(でも過去に)「あるよ、そんなの」って。
だから、全部浴びた末に、そんなの出てくるわけだしね、っていうふうに思った。
オリジナルって、わりと幻想に近い部分があるし。
漫画の新人賞の審査員、小さいところでやってるんですけど、毎回言ってるのは「おもしろいものがいっぱいあるから、全部見たほうがいいよ」って、それしか言ってないんですけどね。
系譜ってことは、けっこうなんか硬い言葉ではあるけど、なんかクリエイティブな言葉には聞こえないけど、大事なような気がするんですよね。
(NHK『SWITCHインタビュー 達人達』より)
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スイス・バーゼル生まれの画家。
油彩、水彩、彫刻、写真、インスタレーションなど幅広い作品を手掛けている。
ある人が溺死した海に、またある人が泳ぎに行く。
こうした観察によって制作するのです。
これがアートや文学のすべてです。
(NHK『ズームバック×オチアイ』より)
]]>美術家、画家
今、我々は生きていますよね。だけど、生まれる以前があったのか、なかったかっていうことを考えると、僕はやっぱり、それ以前があったと仮定しないと説明できないことが多すぎるんですよね。
それがやっぱり今生の作品の中にも、なんかの形で影響して、で描かせられてるっていう感じで、自分でもわからない何か…その無意識とかいうレベルじゃなくって…もっとね…魂のレベルって言ったらいいのかな…うん、まぁそれを僕は「原郷(げんきょう)」っていう言葉で説明してんだけどね。
魂っていうのは見えないし、触れないし、だからそれは、そういったものは存在してないんだっていう近代的な考え方ではなくってね、見えないもの、触れないもの、そういったものこその中にね、何かものを創る必然性ってのか、原動力があるんじゃないかなと思うわけね。
すべての人には魂のふるさとがあって、その場所が原郷。原郷は死んだあとに魂が帰っていくとろこでもある。原郷とは、命のサイクル、生命の根源のようなもの。
これからの夢とかね、計画とかね、そういうビジョンは全然ないですね。
まぁ、今日のこの絵は今日一杯描いて、その続きは明日描く、その続きもまた明後日っていう、それの連続ですよね。
楽しいのか、苦しいのか、なんだかよくわかんない。何なんですかねぇ…まぁ画家っていう業があって、業によって描かされてんのかなぁ…何なんだろうなぁと思って…。
そんなこと考えないですね、それ考えるとね、途端に描けなくなっちゃうと思うから、「まぁいいじゃないか、描きたいから描いてんだから、それでいいじゃないか」っていうことですよね。
(NHK『日曜美術館 横尾忠則 ART IS LIFE』より)
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旭山動物園園長 獣医
やはりペットとは…基本的に動物園にいる動物たちっていうのは違うと思います。
自分も動物園に入るまで…野生の動物ってのは実際に手に取るなんて、すごく特殊なことじゃないですか。
うちの動物園なんかでも、地元の保護動物っているんですね、傷病鳥獣、ケガしたり傷ついたりで。
(自分が動物園に)入った年にヒグマの子供が保護されてきて、こんなチビ助で、見た目は本当にぬいぐるみみたいで可愛いですよね。
で、「お前、面倒みれ」と言われたんで、1週間もしたら自分にべったりなつくんだと思ってたんですよ。
そしたら絶対になつかないんですよね。親と穴ん中で過ごした数ヵ月間で「クマ」なんですね。
「食べなさい」って言ってエサをあげても、ずっとこっち(自分)を見たまんま、口をとんがらがして、ずーっとにらみ返してきて。(自分が)見てる間は絶対(エサに)手をつけないんですよ。
自分も他の仕事があるんで、他のことをして戻ってくると、ペロッと食べてるんだけど、また、じーっとにらんで。たぶん、(自分が)じっと見続けたら、死ぬまで食べないんだなって。
それで、見てない時に食べるんだなっていうことで、大きくはなっていくんですけども、本当に1回も気を許すことがなくって。
自分1人では生きていけない。でも、他の生き物に頼ろうっていう生き方を選択しない、野生の本質みたいなもの。
それが、どの動物も基本的にはそうで、生き方にぶれがないっていうか、自分に起きたことは全部自分で受け容れて生きる生き方っていうんですか。
本当、それをたくさん感じて、感じれば感じるほど、お客さんが来て、こんなのつまらんとか、寝てるからつまんねえからって石をぶつけられたりとか、もうそういうのが本当につらくて。
自分たちの無力さっていうんですかね、こんなすばらしい生き方をする生き物たちのことを「つまらん」って言われて、「しかたがねえ」ですましちゃあいけないなぁみたいなものが、もうすごく思うようになってきて。
人の興味を引くようなショーをさせる、芸をさせるっていうことではなくて、もっと本質的なものをちゃんと感じてもらわなきゃいけないと思って。そのためには、その動物らしい感性とか、そういうものが発揮できる空間を作ってあげなきゃいけなくって。
動物のもっている、その生き方っていうのは本当に淡々としていて……何て言うんですかね、自慢するために生きてるわけじゃなくて、なんか山ん中のどっかで、誰にも人には見られずに、ずっと今も、今日もきっと生き続けてる生き物たちがいて。
動物たちのほうが何か、生きるっていうことに対して、すごくピュアな気がします。
動物園がある意味は、どんどん自然が遠のいていく中で、本来、自然の中で生きているたくましさだったり、いろんなものが玄関口というか窓として人の世界の中にちゃんと自然を知る場所として、覗ける場所として動物園が存在する意味がきっとあるんだなぁとは思うんですね。
やっぱり、人が気づかないと未来も変わっていかないし、たぶんこのまんま僕らが「なんとなく、まだいけるんだろう」って生活をしていくと、本当にこのアザラシでさえ数十年後に地球上にいるかどうかもわからないわけですよね。
みんなが本当に、いろんな生き物のことを大切に思ったり、不都合な存在でも認めるっていう感覚をちゃんともって、都合のいいもんだけじゃなくて、みんな混沌と生きてるんだよっていうことを感じられるんであれば、もしかしたら動物園っていうのは必要なくなるのかもしれないですけれども、でもたぶん、なかなかそうはならなくて、やっぱりどこか、何かを発信していかなきゃいけなくて、そういう場所なのかなっていうふうには思うんですけどもね。
(NHK『SWITCHインタビュー 達人達』より)
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歌手、シンガーソングライター、アイドル
エレファントカシマシの宮本浩次からの「現役で歌い続けていくうえで気をつけていることは?」の質問に対する回答。
やっぱり歳を重ねてくると、当然こう…ねぇ、体力の面とか、いろんな面で若い頃とは違ってきますけど、でもね、不思議と歌を歌っているときって、自分が曲を書いたりするときって、その主人公の女の子って、私が『赤いスイートピー』を歌っていた頃の主人公と全然変わっていないんですよ。
私の歌の世界の主人公は、歳を取らないんですよ。
だから、その世界を歌うには、そのときの気持ちに、なんかなってしまうんですよね。
気をつけてるっていうと、それはまた、ちょっと違うのかもしれないですけど、歌の世界では歳を取らないんですよ。
だから、歌を歌ってると元気になって……うん、あのころと何も変わらない気持ちになれるんですよ。
それを、自分がまだ感じられるうちは歌っていけるのかなぁっていう、そういう気持ちで、ずっと歌っていけたら幸せだなぁって、それを思います。
(テレビ朝日『関ジャム 完全燃SHOW』より)
]]>菓子職人
青森県五所川原市で津軽名物「笹餅」を60歳から作り始め、75歳で起業。
砂糖以外の素材をすべて手作りする、その味が評判となり、全国から買い求めに来る人も。
現在も、ひとりで年に5万個を作り続けている。
特別養護老人ホームができたから、そこさ慰問に行ってみるかって。
へば、私、餅もっていこうと思って、餅もっていって。
そうしたらね、おばあちゃん2人ね、涙流してくれたの。
その涙見たときにさ、帰ってきてからでもさ、「なんて今日いいことしたんだろう」って。
お餅1個で涙流されるっていうことは、一生続けようと思った。
10本の指は、黄金(こがね)の山。
(指が)神様だ。
「この10本の指さ動かしていれば、お金に不自由しない」って。
母からいただいた宝物です。
これは、私のすべて。
(番組の女性ディレクターの悩みに応えて)
どうやって生きていったらいいかな……そういうことに対して、いい参考書でもあれば(笑)
わからないっていうことは幸せなことよ。
そういう気持ちで人生送っていれば、きっといいことがあるわよ、うん。
(NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』より)
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発明家・プロダクトデザイナー
「サイクロン掃除機」の発明で世界に旋風を巻き起こした、ダイソン社の創業者
私が絶対にしないことのひとつがアドバイスです。
唯一できるアドバイスは、「アドバイスは聞くな」ということです。
人と違うことをして世界を変えたいとします。
これまでとまったく違うことをするのですから、アドバイスをできる人はいないはずです。
経験なんて必要ありません。
経験は過去に上手くいったことであり、将来、上手くいくかどうかとは関係ないんです。
ですから、「アドバイスに耳を傾けるな」と言いたい。
やりたいことをやって、絶対にあきらめてはいけません。
(テレビ東京『カンブリア宮殿』より)
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登山家、冒険家
1970(昭和48)年、日本人で初めてエベレスト登頂に成功。
同年、世界初の五大陸最高峰登頂者になる。
1978(昭和53)年、世界初の犬ぞりによる単独行で北極点に到達。
1984(昭和59)年、北米アラスカの最高峰・マッキンリー(現・デナリ)に世界初の冬季単独登頂に成功した後、消息を絶つ。
植村に憧れて登山家になった、野口健の話。
いろんな国に行くと……南米もそうだし、アラスカもそうですし、ヒマラヤもそうなんですけども、「お前、日本人か?」「日本人だ」っていうと、「ナオミを知ってるか?」っていう話がよく出るんですよ。
だってもう遭難してから、だいぶ時間が経つんですよ。
ヒマラヤに行っても、「ナオミ、ナオミ」ってね、いろんなシェルパの村々に行くと、直己さんの話が出るんですね。
あるシェルパの家に行った時に、指がね、ほとんど、その方なかったんです、冬のエベレストで、凍傷で全部指を落としたんですね、植村さんの隊で。その人の家だったんですね。
で、そのシェルパが僕に手を見せながら「俺は指が一本もない、エベレストの登山隊で指を切った」という話をしたので、なんか面倒臭いところに入っちゃったな、と思ってね。
お前ら日本人のせいで俺は指を切ったんだっていうふうにくると思って、一瞬、構えたんですよ。
(でも)そうじゃなくて、「隊長がナオミで……指を全部失ったら、あの頃は外国人はシェルパのことをあまり人間扱いしてなかった……」っていうんですよ。「でも、ナオミは違った。何度も日本から来てくれて、病院に連れて行ってくれて、なかなか仕事ができないと仕送りをしてくれて……初めて俺たちを人間扱いしたのはナオミだった。俺は指が一本もないけど、この指を見ると、いつもナオミのことを思い出すんだ」って、そのおじいさんがね、僕に話をしてくれたんですよ。
その時に、「あっ、(これが)植村さんなんだな」と思ったんですね。
(NHK Eテレ『知恵泉』より)
]]>アメリカ・ピッツバーグ生まれの写真家
カラーフィルムがまだ一般的ではなかった1950年代に色鮮やかなニューヨークの街の風景の一瞬の断片を、「3分の1構図」と呼ばれる大胆な構図で切り取った作品などで知られる。
雨粒に包まれた窓の方が、
私にとっては有名人の写真よりおもしろい。
私は単純なものの美を信じている。
もっともつまらないと思われているものの中に、
興味深いものがひそんでいると信じているのだ。
誰もがモノクロのみが重要であると信じていることが不思議でたまらない。
美術の歴史は色彩の歴史だ。
私の好きな写真は何も起きていないように見えて、
片隅で謎が起きている写真だ。
スタジオでの撮影を好む編集者たちとも働いた。
スタジオだと昼食会ができるから、彼らにとっては快適だったのだ。
外で働いていたら昼食会はできないからね。
でも私は外で働くのが好きだった。
成功のために、すべてを犠牲にする人もいるけれど、
私はそうしなかった。
私を愛してくれる人、私が愛する人がいるか、
ということのほうが私にとっては大切だった。
人生は……本当の世界は隠れたものとつながっている。
肝心なのは何を手に入れるかじゃなくて、何を捨てるかなんだ。
(NHK Eテレ『日曜美術館』より)
]]>ギャラリスト
東京藝術大学を卒業後、日本を代表する現代美術画廊での勤務を経て、1996年に「小山登美夫ギャラリー」を回廊。
以後、村上隆、奈良美智など同世代の日本人アーティストの展覧会を多数開催。
また、多くの海外アーティストを日本に紹介している。
画家の人の、わりと個展なんか観てるときに、やっぱしあるときから自分の絵を、とくに調子がよかったときの絵をまねしちゃうとかね、フォローしちゃうときがあったりして、そういうのってのは、けっこう残酷だなっていうか…ありますよね。
売れるっていうことと、自分の作家性っていうものとがグチャグチャになっちゃった時期っていうのが、多分ある人がいると思うんですね。
やっぱし、みんな年取っていくわけじゃないですか、役者さんもそうだと思うんですけど、その年なりの価値観とかがあって、それの演技があったりとか、制作があるって思うんですよね。
やっぱし、その作家がちゃんと作り続けていって、死ぬまでね、作り続けていくことによって最終的に名前が残るわけじゃないですか、ゴッホとかにしてもね。
ゴッホはだって、生きてる間に1コしか売れなかったでしょ。
なんか現代美術の…僕はよくわからないけど…ギャラリーの人たちって、ゴッホっていう伝説があるじゃないですか、画家は貧乏だ、それで1枚しか売れなかった、で狂って死んじゃったっていうのがあるじゃないですか。
そういったようなものから、やっぱし逃れたい、「自分がそのときにギャラリストだったら、ゴッホを扱って大成功させただろう」って…まぁそんな簡単じゃないと思うんですけど、そういったのって、みんなちょっとは思ってると思うんですよ。
それがまた、何百年と残っていくわけじゃないですか、それがやっぱし美術のいちばん、最終的にはおもしろいところですね。
(NHK『SWITCHインタビュー 達人達』より)
]]>大佛師
17歳のとき、4歳下の弟を亡くしたのをきっかけに、それから2年間で300体の仏像を彫る。
その後、運慶の流れをくむ野崎宗慶に弟子入り。仏師の道に進んだ。
写実じゃなくて、写質なんですね。
写実的に作るのは、それ(対象物)があれば作れますけども、この(木に彫った)カエルが何を考えてるのかを彫るのが写質なんですよね。その一段上をいってる。
仏様がどんな感情をされて、どうされてるかってのが、ものすごく大事ですね。
(不動明王の)人を諭すための怒りとは、どういう怒りなのか。怒るための怒りじゃないんですよね。善意で悟るための怒りなんですね。
だから、強い決意をもって相手をお説教してくれるわけね。いいほうに導いてくれるのが、お不動さんなんですよね、僕の感覚の中では。
やっぱりね、仏さんの持つ本質的なものは何かっていうことになってくると、相手を癒すって心がなかったらね、つまり慈悲を与えなあかんですわね、それをどうしたら一番与えやすいかってですね。
(不動明王は)歯を食いしばってるだけじゃなくて、何のために食いしばってはるのか、だってことですね。
(木から仏像を彫るときは)いらんところが見えてくるわけです。
みなさん、逆に彫らはるんですよ。彫刻のときにね、鼻を彫らはったら、鼻がなくなるでしょ? ここ(鼻の周りの部分)とってあげたらいいだけです。ここを取ったら鼻が出るでしょ? 別に鼻を彫る必要はないですよね。ここを取ってあげたら、それから鼻になるんでね。
何が棲んでるかっていう話なんですよ、木の中に。
木を見たら、大体何になるかってわかってしまう。
だから、「絶対、上手いこと彫ったろ!」と思っても無理なんですね。実力以上のものが出るわけはないんで。
だから、本能なんですね。よく、「先生、何考えて彫ってる?」って言われたら、じつはほとんど勝手に手が動いてるだけですよね。
逆に、ある意味で言うたら、画家に言わせたら「キャンパスを汚してるだけ」やって。
その汚し方が違うから絵に見えるんと一緒で、僕なんか(木を)破壊してるわけですよ、ある意味で言ったら。
でも、そこで「彫ってくれ」って言われるような感覚にはなるんですよ、やっぱり。「ここは、いらん」って(木から)言われるの。
いらんところに対して躊躇はしないんですよね、だから。もう、パパッと取ってしまいますね、迷わない。
僕の場合はね、もともと嫌いじゃなかったのは事実なんですし、それともうひとつは知ってましたしね、そういうの近所におられたんで、たくさん。職人町に育ったんでね。だから、弟を亡くしたときに、すっと仏像を彫ってましたね。
あと残った家族が、どうして生きるかも大事な道なんですよね。毎日毎日、人を恨んで生きていくのか、死んだ弟が今度は父親、母親、僕らに対して毎日泣いてほしいのか、家族がようなってほしいのか。
母親はやっぱり、ずーっと自分をね…弱い子を作ったという意味で苦しんでましたよね。
逆に、死んだ弟もそれで(自分が仏師になったことで)よろこんでくれたと思いましたね、家族が仲ようなったほうが…うんうん。
一番最初に彫ってたんは、やっぱり楽しかったです、もっとね、彫ってるほうが。つまり、弟のために彫る、家族のために彫る、自分にために彫る、で。
やっぱり、プロになったらそういうわけにはいかんですね。
仏って何かていったら、自分のために彫るもんでは、じつはないですもんね。これだけ昔から続いてきたもんを、これから自分は師匠から伝統を受け継いで、継いだ以上は伝統を残すっていう義務も生じてきて。
人さんがよろこんでくれはって、手合わせてくれはって、「あっ、これが仏なんやな」っていうことになったんですね。
若いとき作ったやつはね、今までいるんですけどね、今見たら恥ずかしいですよ。
やっぱり、その方(発注者)たちに育てられたから今ここに(自分が)あるんですよね。だから、(昔彫った仏像を)何体か残してあります、自分のためにね。
やっぱり、30代前半に彫ったものと、今なんかはまったく別人が彫ったみたいになりますよね。でも、その人たちのためにも精一杯やったから、ここまでこれたんやから、それはもう自分で仕方ないと思いますけども。
自分にとってはね、やっぱり最初から上手くなりたいと思ってましたね。そやからこそ今、この歳になってもまだまだ進化しているのは自分で実感はしますね。
(進化とは)中にある、本当の意味での魂ですね。それとね、人が進化させてくれはるんですよ。そやから、自分が恥ずかしくなるようなこともいっぱいありますよ、本当の話。それを、その人たちが教えてくれてるんですね。
ある展示会で、(見に来た人が)子供が…まぁ自死って言わはったよね。「自死って何ですか?」って言ったら、自殺のことやったんですね。で、「死んで、こんな絵を残したんですよ」って絵を見せられたんですね。パッとみたら、もう死相が出てるんですね、絵にね。見ただけでわかりました、絵に出てましたもんね。
その後、奥さんが言わはったことは、「この(絵の)顔の、似たような仏さんを作ってくれ」っておっしゃったんです。それは、やっぱりお断りしました。お断りした理由も簡単なことで、それをつくってあげると、その奥さんは、それを持って死にます、息子といっしょに、(息子のところに)行きます。
それを今度、ご主人がお礼に来はりました。「あのとき、先生、これを作ってくれてたら、息子のところに家内は行ってた」って。いっぱいあるんです、そういうことは。
やっぱりその中で一番大事なことは、今、現場で生きてる人が…救うのが仏さんの役目なんですよね。
そんなん、いっぱい現場であるし、逆に言ったら、重いもん背負うとき、いっぱいありますよ。もちろん、それもひとつの仕事ですから、売るだけじゃなくて、断るのも仕事ですもんね。
(大きな仏像を作るときは、まず5分の1サイズを作ってから本番に臨むが)それまでに、ものすごい用意しておくことなんですよ。近いようなものをたくさん作るんですよね、小さい、いろんな作品を…手慣れておくんですよね。
そして、もうひとつは苦労して作るのが大事なんですね。難しいことができたら(次は)いとも簡単に作れるんですよね。
つまり、重たい荷物を平気で持つ人は、今度、もっと重たいやつを持てるようになりますけども、軽いのしか持てへん人は、もう重たいもん持てなくなりますね、そういうことなんです。
だから本当に、努力していかんかったら肉体も衰えるんですね。だから、それが一番大事です。
大仏っちゅうのは、そう簡単に注文がくるわけじゃないんで。でも、それを作るスタッフも材料もなかって、くるわけはないですよね。そやから、スタッフと材料をしっかり手に入れておくことが大事なんですよ。
仏像を作る形がそうなんですけども、基本的には人物の姿を借りてますよね、日本の仏像すべてが。そやから、その人物をまず知っとかんと難しいと思いますね。
倒れかけてるお不動さんがあったら、誰が見てもアンバランスに見えますよね。究極はやっぱり、そのバランスをどう保つかということは、人体力学を知ってないといかんし。
僕らが若いときは、こうやって見るのね、電車に乗ってもね。そしたら、年寄りと若い人の違いとか、見てると耳の位置でしてね、この耳の位置がだんだん前にきますね、年とると。だから、耳の位置をどこにしたら仏が一番よろこぶんかなとか。
初めから決められた寸法があるんです、じつはね、本物が。それを、じつは崩すんですね。それから順番に追っていって、このへんが一番かわいく見えるとか、賢く見えるとかいうことを考えるんですね。
だから、歩いてても仕事のことが離れへんですよね。ということは、それ(本番)までに自分がどんだけ用意できてるかなんですよね。
「できない」から入るんじゃなくて、「どうしたらできる」から入っていかなあかんですね。何もいっしょです。「できますから」しか言わない。
で、やって、あとどうしたらできるかちゅうのは自分が考えて、相手に提示しないと無理ですよね。その姿を弟子に見せるの大事やね。
やっぱり、人財いいひん限り無理ですね。だって大きなものは持つことすらできませんから。
一番大事なことは、この工房の行く末ですよね。もうこの歳になってきたら、それしかないですよね。いつ、人に任すか、任さないかね。
そんときはたぶん、おそらくですよ、やっぱりもう自分がノミ持てなかったとき、やめると思います。もしくは目が見えなかったときね。それ以外は無理やと思いますね。
手の内は全部見せてるわけですよ、展覧会でも、弟子も、どっかの弟子も、お客さんも来はりますし、資料も全部売ってますし、作り方も全部オープンにしてますし、ものすごい研究したことも全部教えてもらってるわけですから。
それに、ちょっとさじ加減でね。たとえば砂糖をちょっと余分に入れたら、ものすごい美味しなったみたいな、ちょっと柚子胡椒入れたら美味しなったみたいなんで(師匠が弟子に)追い越されるわけですから。
それまでは料理の切り方から、材料の買い方からやってきたわけですから、だからやっぱり、それを追い越してもらいたいですね。圧倒的な上手さで、ピューって抜いてもうたら気持ちいいですね。
はようおいで、はようおいでって、子供が歩く、立つみたいなですね。そのうち、はようおいでって言って自分が、コテってこけてしまったら、シャっと飛び出されますから(笑)
よくあるじゃないですか、努力して天命を待つ、とか。
じつは、努力したら天命は来るんですね、待つんじゃなくて。
たまたまね、弟が(13歳で)死んで、この世界に入ってるんで、それはやっぱり、たまたまです。
本当は、僕は別の世界に行きたかったのは事実なんですよ。でも自分から、授かった仕事と思えば…思えたんはもっと経ってますよ、35、6(歳)のときですよ、「やっと、これで仕事がみつかったな、自分の」と思ったんは。
天命っていうのはね、自分が感じるものじゃないんですよ、もともとは。周りから聞こえてきます。
自分が天職って言ったって、「あんた、なんでそんなに下手くそなのに天職なの?」、「努力してるんだよ!」って言われても…やっぱり天職っていうと、相手がみんな認めることなんですね。
(NHK『SWITCHインタビュー 達人達』より)
]]>You Tubeの音楽部門の全世界総責任者
1980年代前半、ヒップホップの先駆者であるRun-D.M.C.のロードマネージャー(ローディー)を務める。
その後、レコードレーベル「Def Jam Recordings」でビジネスを拡大。
Def Jamでは、ビースティボーイズ、パブリック・エナミー、LL Cool Jなどのアーティストをマネジメントした。
1999年、マーキュリー、アイランド、デフ・ジャム・レコーディングスの統合に成功し、アイランド-デフ・ジャム・ミュージック・グループを創設。
後に、ワーナー・ミュージックグループのCEOを務めた。
新人の発掘、育成、そしてマーケティング…そうしたことに私は恋焦がれています。
私は音楽の可能性とチャンスに、ずっと魅了されてきたんです。
ほんの偶然から特別なものが生まれ、世の中が変わるのを待つ。
そうして自分の方向性を、この業界の中で決めてきました。
最初はラップなんて雑音だと言われてました。
でも、今では世界中で大人気です。
子供たちも自分たちの問題について、自分の声と言葉でラップしていますよね。
すごく素晴らしいと思っています。
You Tubeには多くの頭のいいエンジニアや、コンピューター科学の専門家がいます。
音楽業界の視点を、そこに持ち込みたかった、アーティストの思いを伝えたかったんです。
アーティストの声をこの会社の中に、きちんと届けることが私の仕事なんです。
それまで、You Tubeには音楽業界の人間は存在していなかったんです。
多くのアーティストには支えが必要です。
曲を書いたり、演奏したりするのは、つらくて、魔法みたいなもの。
だから手助けがいるんです。
だから、レコード会社は今でも重要です。
しかし、過去ではなく現在と未来を見つめるべきです。
多くのアーティストはビッグスターになることと、お金儲けをモチベーションにしています。
しかし、道でデコボコした障害にぶつかったら、あきらめてしまう。
作曲を続けることは奇跡のようなもので、とても困難な道のりだと思います。
私の両親は、私に「働くこと」は避けてほしいと思っていました。
何度も聞かされたことは、「世の中のほとんどの人が働くけれど、そのうちの1%に満たない人だけが情熱を注げる何かを見つけられる」と。
親の励ましもあって、私は情熱を捧げられる何かと出会え、リッチマンになれました。
それは、お金のことではなく、人生の豊かさのことを言っているのです。
両親が情熱の大切さを教えてくれたんです。
今、心配なのは、アプリのアルゴリズムが似たような曲としか連動しないことです。
たとえば、レコード店に行って、ヴァン・ヘイレンのところに行きますね。
でも、他にレコードが並んでいるのを見て、違うアーティストも買ったはずなんですよ。
ですから、私たちのアプリが改善して、驚きと発見の感覚を磨きたいと思っています。
ファンを狙い撃ちしたものだけではなく、もっと広い音楽の世界を知ってほしいのです。
(NHK『SWITCHインタビュー 達人達』より)
]]>武道家、俳優、映画プロデューサー。
1958年にブルース・リーが渡米後、シアトルで初めて創設した自身の「截拳道(JKD/ジークンドー)」の道場を任せた友人で弟子のターキー・キムラ(日系2世)に宛てた手紙の一節。
当時のアメリカは人種差別が激しく、なんとか生きていくためにも同じアジア人の2人は意気投合。
ブルースは生涯に200通以上の手紙をターキーに送り、励まし続けたという。
人生は水の流れに似ている。
時には不愉快なことが現れ、心に傷痕を残すが、すべては水のように流れていく。
(NHK-BS『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』より)
]]>落語家
東京高等学校から明治大学に進学し、18歳の時に5代目柳家小さんに入門。
1963年、真打に昇進し、立川談志を襲名。
1983年、落語立川流を創設して家元となる。
生前、死後の世界について問われた時の発言。
誰も帰(けえ)って来た奴はいねえからなぁ。余程、好いところなんだろう。
(「AERA dot.」より)
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