表現者の流儀 #191 西川美和
西川美和(にしかわみわ 1974年7月8日‐)
映画監督、小説家
代表作に、映画『蛇イチゴ』、『ゆれる』、『ディア・ドクター』、『永い言い訳』など。
関係性について書いてしまうのはもうね、ほとんど無意識ですね。
自分がその…他者との関係をテーマにやっていく作家だっていうふうに決めているわけではなく、上手くつながれないこと、ディスコミュニケーションといわれるものに、どうしても興味がいっちゃうんですよね。
だから、無意識にそういうモチーフを取り上げているんですけど、今回の(映画『永い言い訳』)主人公は自分自身の曲がった自意識であるとかね、弱さだとかそういうものは、より濃く投影した部分があると思います。
あたしねぇ…じつのところ目の前のことしか考えてないんですよね。
何かの賞をもらうとか、大きな映画祭に出るとか、そういうことって映画のビジネスとしてはとても大切なことだし、一応その…チームの目標としては持っているし、出たいし、賞ももらったらいいんだけど、本当のところで、根っこのところではね、何にも考えてないんですね。
だからね、自分のためにしか作ってないと思います。
いい年をして、子供を育てたこともないっていう…子供がいないまま中年になった人間の身の置き場のなさであるとか、それが悪いことではないんだけど別に。
ただなんかその…世界に対しての自分の立ち位置っていうのが、どんどんわかんなくなっていくんですね。
それってね、20代とか30代の前半にはもう自分の人生で実現することに必死だから感じなかったんだけれど、そういう自分の中に重なってくるいろんな負い目とか引け目みたいな、それが年齢相応のそういったものを、とっても自分自身、語ることも恥ずかしいんだけど、ある意味、その自分の足りなさだとか欠落を逆手にとって、絶対、自分だけじゃない、この欠落感とか、寄る辺なさを感じてる人間はっていう…そこはまぁ賭けなんだけれど、そこも含めて自分の欠落や恥を出せば、まぁこれだけ物語がすでにある世の中で、またちょっとだけ新しい角度をね、投じられるんじゃないかなと思った、というところかな。
言わないですね小説家とは、自分からはね。
やっぱり、背負う覚悟がないから…覚悟の問題じゃないですか。
だから、私は映画は下手でも背負ってるんですね、背負ってる気持ちでやってるんですよ。
で、小説は背負ってないです、まったく。
小説のほうが自分は自由になってる感じがするんだけれど、でもね、自由でいられるのは私がプロじゃないからですよ、たぶん、それは。
俳優って肉体が、具体的な肉体が入ってくると、正直いって自分がイメージしたものとはズレがあるし、違うといえば違うんですよね。
ほとんどその…他の人を入れてやるっていうことは、はっきりいって妥協とね、落胆の連続ですよ。
だけど、それをなんか…崩壊ととるか…変化と受け取るか…そこだと思うんですけどね。
結局ね、なんか振り返ってみると、自分が完璧に支配して作り上げたOKの箇所よりも、なんかこう…いろいろな偶然が重なったりだとか、場所とか天候とか、俳優が出してきてくれた自分が思いつかなかったところが…そういうシーンのほうがね、後々はね、好きなんですよね。
快感はねぇ、ないんだけどね、現場では。
ないんだけど、終わると何か、寂しくなるというより、その場所自体が非常に愛おしく感じますねぇ。
「あぁ、あんないい場所があったのに、あたしは毎日、あぁ上手くいかない、上手くいかないって言ってるばっかりだなぁ」っていうふうに気づいてしまいます。
だから、次こそは、ね、もっと違う形で人を生かして、上手くコミュニケーションとって、と思って話を書くんだけど、また現場に戻ると…あれですね、上手くできない、目の前の人を大切にもしない。
終わる。
終わると、まぶしく見える。
その繰り返し。
(映画のスタッフを)そんな、手放しにね、ほめられないです。
でも、それがね、血の通った関係性じゃないですか。
私はまぁ、家族がいないから、両親以外…そういう意味で、ある意味、家族的な…人との関係性も映画という表現手段そのものも、自分の家族のように近いものになってるんじゃないですか…愛憎。
やっぱり、いろんな人が関わり、いろんな人が汗をかく映画っていう仕事に身を置けてることが、やっぱりありがたいなぁと思うようになりました。
けど、それも最近ですね、ほんとに。
(NHK『SWITCHインタビュー 達人達』より)
